Month: September 2002

123便事故機の残骸・CVR・DFDRの保存と公開に関する申し入れ123便事故機の残骸・CVR・DFDRの保存と公開に関する申し入れ

2001年8月22日 日本航空株式会社 代表取締役社長   兼子 勲 殿 5労組発 第5-3号 日本航空内 5労組連絡会議 代表   片平 克利 123便事故機の残骸・CVR・DFDRの保存と公開に関する申し入れ 私たちは、航空事故調査委員会が発表した123便事故の事故調査報告書には多くの疑問・矛盾があり、真の事故原因究明のため再調査を行うことを求めてきたところです。 しかるに、この事故から16年目を経た今年8月12日、貴職は保有している事故機の残骸を処分する意向であることを表明されました。 本件事故に関する聴聞会(1986年4月25日)において、日本航空を代表して平澤運航本部長(当時)が、事故調査委員会に対し調査すべき事項を明らかにしています。例えば、「下側方向舵上部にある上側方向舵との接触により生じたと思われる痕跡について、その発生条件の解明が必要」と指摘していますが、これらの点について、事故調査委員会の報告書では「その発生の経緯を明らかにすることはできなかった」として、解明されぬままその調査を終えてしまっています。 貴職が残骸を破棄するのであれば、これらの事項の事実解明は闇に葬られることを意味し、真の事故原因究明に向けた再調査の手立てを事故当事者が自ら摘み取る行為であり、決して許されるものではありません。 2000年1月には御遺族からも運輸省(当時)に対し、真の事故原因は究明されていないとして、その再調査を求める要請が出されています。また、本年8月12日の慰霊の園にて、御遺族の方から遺品と残骸を破棄しないよう貴職に強い申し入れがあったことはマスコミにも取り上げられている状況です。 日本航空が残骸等の関連物件を破棄するとなれば、社会的非難を浴びるのは必至です。 私たちは上記の状況から、また事故調査報告書の発表後にも数々の新たな事実が判明してきていることにも鑑み、日本航空として再調査を行うことを改めて要請いたします。 さらに三乗組では、1990年8月15日、1991年5月29日、1991年10月24日と、本件に関連した協議の場を設けられるよう要請してきました。これに対し日本航空は、少なくとも大型機の機内減圧が乗員に与える影響について話し合いの機会を持つ旨回答していますが、いまだ履行されていません。 早急に、私たちとの協議の場を再開されるよう要請いたします。 記 1. 返却された事故機の残骸・CVR・DFDRを破棄する方針を撤回し、私たちに公開すること 2. 過去の回答にのっとり、急減圧に関する交渉を行うこと 3. 日本航空独自に事故原因の再調査を行うこと 参考/聴聞会で日本航空が指摘した項目(要旨) ?@ 圧力隔壁の飛行中の破損と、墜落時の破損との区別確認が極めて重要。 ?A ボディドアシール(水平安定板取付部の胴体開口を塞ぐ胴体側可動ドア)の圧力リリーフ機能とあり得た開口の大きさに対する調査が必要。 ?B 垂直尾翼、APU防火壁の破壊過程および原因推定のため、更に破損部品の回収が必要。

国際定期航空操縦士協会連合会(IFALPA国際定期航空操縦士協会連合会(IFALPA

IFALPAの目的と設立過程 IFALPA(International Federation of Air Line Pilots’ Associations..国際定期航空操縦士協会連合会)の標榜する基本的な目的は、航空輸送の安全かつ秩序ある発展とエアラインパイロットに共通する利益の保護である。 第2次世界大戦が鎮まるとともに再開された国際民間航空の発展は、目覚ましかったが同時に、個々のパイロット協会では対処しきれない技術的問題や、運航に係わる国際的な問題が、多数生じることとなり、航空輸送事業の安全かつ秩序ある発展をはかる上で、パイロットによる国際的機関の設立が望まれるようになった。その機運のもとに、1948年4月、British Airline Pilots’ Associationが主催して、13のパイロット協会がロンドンに集まり、協議した上で、IFALPA組織が結成された。1955年からロンドン市内に本部を置いたが、1977年には、ロンドン郊外Eghamの地に本部を移し、”Interpilot House”と呼ばれ現在に至っている。 ALPAーJapanは、1961年日本を代表するパイロット協会として、加盟を承認された。 1986年12月現在、65ヶ国、65協会、約60、000人のパイロットで構成されている。 本部:INTERPILOT HOUSE   116 High Street   Egham, Surrey   TW20 9HQ,   England抜粋 ALPA BRIEFING SERIESALPA-J HAND BOOKNov.1987より Acrobat Reader download logo PDFデータを閲覧する為には、 Adobe 社の

事故調によって闇に葬られた123 便機内の写真事故調によって闇に葬られた123 便機内の写真

123便事故の再調査を求める?C UAL811便の急減圧事故(89年2月24日)は、減圧発生高度が約23,000ftと、123便(24,000ft)と状況が似ており、機材も同じB747でした。 UAL811便の客室乗務員が証言した機内の様子と、123便事故の状況とを比較してみましょう。 事故調の推定通りなら、突風が吹いたはずなのに‥‥ ホコリ・雑誌や手荷物が散乱しなかった123便機内 ?@ UAL811便:機内を強い突風が吹きぬけ、紙屑や雑誌が舞い上がった。客室乗務員も飛ばされそうに感じた。 123便:生存者は「機内の空気は流れなかった」と明言しています。 事故調は、計算上機内では平均20kt程度の風が吹いたことになるが、「客室後方にトイレなど流れを妨げるものがあるから、風速は天井の上側で大きく、座席付近ではこの値よりかなり小さくなる」と推論しています。 しかし、そうだとすれば空気が流れる実質的な断面積が1/3程度に狭まり、天井内の風速は60kt程度に増えて天井部分が吸い上げられ、その空気の流れやパネル破損などが発生しそうなものです。 果たして後部座席では急減圧の風を全く感じないものなのか、他の急減圧事故と明らかに異なるこの現象を裏付けるために、事故調は証言を無視したり憶測で終わらすのではなく、事実を持って証明すべきです。 新聞でも報道された機内の写真 なぜか事故調査委員会だけはその存在を無視 また異常発生後の機内後部を撮影していた写真が、時効成立後警察から遺族に返還され、新聞でも報道されました。 そこには、ホコリや雑誌、荷物類などが散乱した様子は見られず、乗客も比較的落ち着いた様子がうかがえます。 この機内を撮影した写真が存在することは、事故1年後には新聞で報道されていましたが、何故か事故調はその存在を認めてきませんでした。そして、事故調査報告書でも一切触れられていません。 なぜ事故調査委員会は、この貴重な証拠を闇に葬り去り、機内の状況を客観的に解明しようとしなかったのでしょうか。 (機長組合ニュース15-26)

急減圧では説明のつかない数々の矛盾急減圧では説明のつかない数々の矛盾

急減圧では説明のつかない数々の矛盾 123便事故の再調査を求める?D 前回に引き続き、UAL811便の急減圧事故と123便とを対比してみます。 「開かなかった操縦室ドア」=差圧が無かった証拠 ?A UAL811便:ギャレーのドアやカートを上げ下ろしするリフトのドアが差圧により開いた。 123便:CVRの解読等でも、操縦室のドアが開いた形跡は全くありません。 事故調の試算では、隔壁破壊から1秒後には操縦室と客室内で0.39psiの差圧が生じたとしています。これは、ドアを施錠するシアピンの設計強度の1.8倍(シアピンは差圧0.22psiで破損するよう設計)に相当します。 ドアが開かなかった理由について、報告書ではあえて説明していませんが、123便のドアが設計よりはるかに頑丈だったのではなく、それ程の差圧がなかった、即ち事故調の解析するような急減圧が無かったと解釈する方が論理的といえます。 真夏に夏服のまま-40℃で、誰も寒さを感じない??? ?B UAL811便:気温が急激に低下し、凍えるように寒くなった。 123便:事故調の試算によれば、急減圧に伴って機内の温度は5秒間で65℃も低下し、-40℃になったとしています。しかし、CVR・生存者の口述・乗客の遺書いずれにも「寒い」といった表現はありません。 真夏に夏服のまま、一瞬に-40℃の世界に置かれても、UAL811便のように「凍えるように寒い」との感覚を持たなかったのでしょうか。 低酸素症はあったのか??? ?C UAL811便:めまいを感じ、脳は十分働いていない感じだった。酸素マスクのプラグをボトルに差し込むことがスムーズに出来なかった。この作業を見ていた他の乗員は、まるでスローモーションの画面を見ているようだったと語っている。 123便:123便の場合、事故調も認めているように、乗員は酸素マスクも着用していません。2万ft以上の高度を飛行していた時間は18分間にも及びます。しかし乗員はフゴイド運動という極めて不安定な運動を繰り返す飛行機を落ち着かせるために、長時間格闘し続けており、これは酸欠状態であればとても出来ない技です。 UAL811便では、乗員は直ちにFL230から緊急降下を実施していますが、その短時間にも酸素を吸入できなかった客室乗務員は低酸素症の症状を訴えています。 果たして人間は、このような高高度で酸素吸入をせずとも正常な判断、行動がとれるものなのか‥‥それは次号以降で紹介します。 騒音もなかった ?D UAL811便:機内の騒音レベルは高く、力いっぱい叫んでも自分自身に聞こえないほどであった。乗客との会話もほとんど出来なかった。 123便:酸素マスク着用のプリレコーデッド・アナウンスを生存者が聞いているように、機内に騒音があった様子はどこにもありません。 一方、123便と同様に圧力隔壁が破壊されたタイ航空機の場合、機内の乗客は相当の風切り音があったと語っています。 これでも尚123便は30万ft/minもの急減圧があったと言うのでしょうか。 (機長組合ニュース15-27)

123便事故の再調査を求める3123便事故の再調査を求める3

事故調査報告書から消された生存者の証言 「機内の空気は流れなかった」 123便事故の再調査を求める?B 「ツンと耳が詰まった程度」の減圧 事故後、奇跡的に救助された落合さん(元日航アシスタントパーサー)は、異常発生直後の機内の様子を次のように語っています。 「耳は痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗った時のような感じ。それもすぐに直りました。」 86年、手投げ弾爆発により急減圧を起こしたタイ国際航空機の場合、減圧は約10万ft/minと、123便事故(事故調の推定値30万ft/min)の1/3に過ぎません。その機内にいて、大阪空港に無事降り立った乗客は、テレビのインタビューに対し、「エー、何ですか。耳が詰まって聞こえない」と難聴を訴え、また「前から後ろに突風が吹きぬけた」とも答えています。 この明らかに異なる機内の状況は、123便での急減圧の存在を否定するものです。また、落合さんは次のようにも語っています。 「バーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方がうっすらとしか見えないほどです。私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号47、48あたりの所が濃かったように見えました。ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がかすかにボヤーッと見えるだけでした。 その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。 この証言から、次のようなことが読み取れます。 ?@「落合さんの席から見て前の方が霧が濃かった」‥機体後部より前の方が温度が低かったと考えられる(落合さんの座席は56列目、左窓際後部通路側、後ろから3列目)。落合さんより後方に座っていた川上さんも「前の方から白い霧のようなものが来た」と語っている。これは、「客室最後部の圧力隔壁から空気が噴出した」との推定に矛盾する。 ?A「霧が直ぐに消えた」‥気温の低下が比較的短時間で止ったとみられる。 ?B「空気の流れを感じていない」‥他の急減圧事故と明らかに異なる。 「霧は流れなかった」=急減圧はなかった! 事故調が行った事情聴取(85年8月27日)でも、落合さんは「流れるような状況ではなく、留まっている状況で、比較的短い時間で霧は消えた」と答えていたことが、運輸省の事情聴取記録にあるとされています。 (新潮45「『隔壁破壊』はなかった」より) しかし、事故調査報告書では唯一「『客室内の霧の発生』(口述による)」(73頁)と記載されているのみで、「空気が流れなかった」ことなど他の重要な証言はすべて切り捨てられています。 自ら描いたストーリーに合致する部分のみ採用し、矛盾する部分は聞かなかったことにする、これでは科学的な調査になりようがありません。 緩やかな減圧でも霧は発生する! 霧の発生をもっても、30万ft/minもの急減圧の証明にはなりません。現に、日航のB747-400の試験飛行中、9,000ft/minの減圧でも霧が発生しています。123便の場合、真夏で機内は満席と湿度が高いため、試験飛行よりもはるかに霧が発生しやすい状況でした。 空気が留まるような緩やかな減圧、これが123便の真相と考えられます。 (機長組合ニュース 15-19)