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7月30日 706便裁判判決<7月30日 706便裁判判決<

(写真:名古屋地裁前にて。機長組合副委員長)

詳細は追ってお知らせします

日航706便事故機長の判決に対する機長組合声明

本日言い渡された無罪判決は当然の判断であるが、事実認定には問題があり容認できない。私たちは検察当局に控訴を断念するよう強く要請するとともに、今後、様々な場で事実関係を明らかにしていく。

2004年7月30日 日本航空機長組合

機付き整備士廃止批判機付き整備士廃止批判

機長組合NEWS 18ー086  ~機付き整備士廃止に対し批判2003.11.14 ご存知でしたか? 11月1日から整備体制が変わりました。 その内容は・・・? 機付整備士制度廃止です 機付整備士制度は、1985年8月12日の123便事故後、当時の最高経営会議が日本航空の機材の安全性を高めるための方針として発足した制度です。しかし、その後経営は「絶対安全」の言葉を使わなくなり、それに合わせて次第にこの機付整備士制度の内容も変わってきました。1993年、1998年に見直しが行われ、現在の機付整備士制度は実質骨抜きの状況になっていました。 2003年10月2日付で「機材品質モニタリング体制の強化」と言うタイトルのオペレーションニュースが出ました。このニュースは“フィールドエンジニア”“フリートエンジニア”といった新しい言葉が出てきたり、組織がどのように変わるのか等、分からないことだらけ、と言う感想をもたれた方もいらっしゃると思います。しかし、よくよく読んでみると、実は“機付整備士制度廃止”と言うことが分かります。   今回の整備体制の変更については運航の安全に直結する重大な事柄でありながら、オペレーションニュース1枚だけの説明で、しかも非常に分かりづらいものだけでした。昨今、整備に対する信頼性が揺らいでいる状況にもかかわらず、この会社の対応は決して信頼を回復するためにはプラスにならないことです。 会社は、これまで「機付整備士」が担ってきた「機番毎の継続的なモニター」は、「組織で行う体制に強化する」と説明していますが、これが本当に実体を伴うものであるのか注意してみていく必要があります。機長組合は今後、安全運航確立へ向け、今回の新たな整備体制について会社と論議していきます。 皆様の声を機長組合までお願いします

EMI防止の緊急要求EMI防止の緊急要求

《50通を超えた報告》 日本航空の3乗組では、1999年9月に発生したJL69便関西事例をきっかけとして、電磁干渉(EMI)が疑われる事例を収集してきましたが、皆様方のご協力により、現場から寄せられた事例や意見が50通を超えました。 また、その中にはいくつかの貴重なご意見も寄せられていますが、報告やご意見を集計してみると、「機内での携帯電話などの電子機器の使用中止を求める」声が非常に多く、実際に異常が生じた際には機内で何らかの電子機器が使用されていたケースが大半を占めています。 《“携帯電話の使用禁止策”を緊急要求》 携帯用電子機器の中にはOMで使用が認められたものもあるため、影響が考えられる全ての電子機器を禁止するには、もう少し検証を進める必要がありますが、機長組合はとりあえずの対策として“携帯電話の使用禁止”を乗客に促すために、「使用禁止の掲示をゲートに表示すること」と「使用禁止を呼びかけるため、より具体的な機内アナウンスを行う」という2点を要求しました。                《更なる取り組みには、より多くの事例を》 最近は世界中でEMIに関する研究が行われつつあり、携帯電話のような本来電波を発する機器に限らず、携帯用電子機器全般についても“安全とは言いきれない”状況が明らかになってきていますが、3乗組としても“より多くの事例”をもって、取り組みを強めていきたいと思いますので、今後も異常を感じられたら、組合まで報告して下さるようお願いします。 2000年11月30日 JCA 15-30 日本航空株式会社 代表取締役社長 兼子 勲 殿  日本航空機長組合 執行委員長 岡崎 憲雄 安全に関する緊急要求

乗員組合に対する会社の労務政策の歴史乗員組合に対する会社の労務政策の歴史

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった日航労組元委員長 小倉寛太郎氏は9年7ヶ月もの長期にわたり、海外の辺地をたらい回しにされました。(“実録”沈まぬ太陽アフリカ編へ)更に悲惨なのは、乗員組合の役員4名が正当に行われたストライキを違法とされ、これを理由に解雇されたことでしょう。この不当解雇を撤回させるまでに8年2ヶ月の歳月を費やしました。(解雇撤回までの経緯はこちら)小説の背景となった時代を中心に、日本航空の経営がとってきた労務対策の数々を年表でご覧ください。  1951年 日本航空創立1960~1961年  日航労組委員長に小倉氏就任  初めてのジェット機DC-8がサンフランシスコ線に就航、日本人により運航が始められた。会社は外国人乗員をジェット機に乗せないと公約し、国際水準、IASCO(乗員の派遣会社)並にという乗務手当の要求を突っぱねる。組合との約束もあり、比較的賃金も安かったレシプロ機へ外国人乗員を振り向けた。さらに、移行後の穴埋めに外国人乗員追加導入。  1962年  日航労組委員長に小倉氏再任 ・会社はミリオンダラー作戦と称し、年々増大する運航直接費、整備費、乗員訓練等の節約に関して「合理化」の諸対策を立てる。 1963年   ・乗員不足に困った会社は61年の公約を破り、DC-8に外国人を乗せると通告。組合は機長4人、航空機関士4人に限り認め、争議時には外国人クルーを使用しないという覚書を会社と取り交わす。  12月   ・DC-8が沖縄上空で訓練中、エンジン2基の脱落事故。 1964 年   小倉元日航労組委員長、カラチ支店へ転勤。 9月  ・会社は覚書に違反し、外国人6人をコンベアに乗務させると通告。訓練は既に始められていた。会社発言「組合員のプロモーションのことを考えて善意でやった」「セーフティキャプテン(教官機長)だから機長でもクルーでもない」「争議時に外国人クルーを使用しないとあるのは協定書の印刷ミスである」 ・乗員編成権は会社にあるとし、労使間の解決を見ないまま、カイロ-カラチ間に乗務する航空士を降ろすことを強行した。降ろした航空士をオリンピックによる太平洋線の大増便に当てたかった。 ・協定違反や労使慣行無視が相次ぐ。  11月  ・会社、一時金の業績リンク制を提案。 ・組合、外国人導入、航空士問題に関し、指名ストライキを決行。  12月  ・賃上げ、年末手当に関して、指名ストライキを決行。 ・会社は12月の組合のストに対抗し、違法ロックアウトを行う。  1965年   ・会社は、違法ロックアウトを再び行ったり、社長を始め管理職がいろいろな言葉を使って、不当労働行為を承知で組合の切り崩しを図る。2月