Menu

実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった、日航労組元委員長 小倉寛太郎氏の海外辺地たらい回し人事の経緯を、吉原公一郎著「墜落」(大和書房)より抜粋させていただき、ご紹介します。

小倉寛太郎氏

日本航空の労働組合、いわゆる第一組合と呼ばれる労組は、1951年11月に結成された日本航空労働組合(日航労組)と、日航労組から1954年9月に分離・独立した日本航空乗員組合、日本航空整備株式会社の従業員で組織された日本航空整備労働組合(日整労組)であった。(この日整労組は63年10月の日航・日整の合併後、会社の行った分裂工作によって少数組合となり、同じく分裂させられた日航労組と66年8月に統一することになる)

日航内で自立した労働組合運動がはじめて成立するのは、1961年に小倉執行部(日航労組)が誕生してからである。では、それ以前の日航労組と会社側との関係はどうであったのか。

?@ 組合の三役人事は、前執行部があらかじめ会社側と相談して決め、たとえば1960年度の吉高執行委員長は61年度の三役人事を小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長とすることを新町人事部長の諒解をとりつけた上で小倉氏に立候補を説得している。このように、執行部人事にあらかじめ会社が介入するやり方は、組合結成以来つづいていた。

?A 組合三役の言動は会社の労務担当者がこれを演出するという関係にあり、たとえば分裂前の日整労組の書記長であった中村信治氏は、1965年7月、前年度執行部と会社との最後の労使協議の後、吉高労務課長らに酒食に誘われ、「私の言うことをよく聞いて今後は活動してほしい。そうしてくれれば君の前途は悪くしない」と念を押され、その後も分裂した「民労」と同じ内容で妥結することを求められている。

?B 日航労組の三役ポストは出世コースであり、59年度執行委員の萩原雄二郎氏は62年には人事課長となり、その後現在では常務取締役(労務担当)となっている。60年度執行委員長の吉高氏は62年には労務課長に就任し、その後取締役になっているのである。

 このように、会社との談合によって決められる三役が、会社側の筋書きに従って行動することにより、その見返りとして出世コースに乗るというパターンが「正常な労使関係」とされていたのであるが、それは、日航の路線拡張、事業所の増大にともなって増大していくなかで、慢性的残業をともなう長時間労働や、人員の不足を埋めるため中途採用者と定期採用者・正社員との賃金の格差、臨時従業員の身分、また正社員でも零細企業を含めた「全産業平均」にすぎない賃金水準の低さ-これらの是正を求める一般組合員の要求が充満してくるという矛盾が発生する。従って、従来のように執行部を使って組合員の要求をおさえこむという方式は、必然的に破綻し、1960年の年末闘争で吉高委員長以下の執行部が、年末手当に組合要求を独断で切り下げて妥結したことに対して、オペレーションセンター支部が委員長不信任決議をし、つづく全国大会でも執行部不信任案可決寸前になる。

 このようななかで、61年度の執行委員長のポストを進んで引き受ける者がなく、吉高委員長は勝手に小倉寛太郎氏の立候補届を提出し、既成事実が作られた上で小倉氏は委員長を引き受けることになるのである。

 「昭和36年度小倉執行部において日航労組ははじめて『会社のヒモがつかない』執行委員長を持つことができたわけである(吉高前委員長が、『小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長』の線で人事部長の諒解をとりつけて来た事実は、小倉にとっては委員長職を引き受ける理由ではなく、むしろ吉高氏からの立候補受諾の説得を当初拒否した理由であった。事実、小倉は前述のとおり右「了解事項」に拘束されることなく、規約上の三役指名権を行使し、亀川氏に代えて境栄八郎氏を副委員長に指名したのであった)。

 そして小倉執行部(昭和36年度・37年度)、および境執行部(昭和38年度・39年度・40年度)のもとにおいて、十分な職場討議を経て組合員の要求をまとめ、組合員の立場に立って会社に対し率直に要求を提示し、正当な団体行動権の行使を通じ、あるいはこれを背景として会社と堂々と交渉するという、あたりまえの労働組合の姿が確立されたのである」(1969年3月31日「東京都労働委員会に対する『最終陳述書』」)

 小倉執行部が成立した年、日航労組は時間短縮、労働協約の改訂、年末一時金のアップ、客乗ジェット手当改訂の要求を掲げて初のスト権を確立し、翌年ストに突入している。

 この闘争を通じて1956年10月以来の労働協約の改訂が合意され、新協約には賃金や労働時間などの労働条件の引き上げが当然のことながらもりこまれ、またユニオンショップ制の強化、規約所定の組合各機関の会合の時間内保障等の組合の権利を伸長させたのである。そして、?@賃金水準は62年から65年までの毎春闘でのベースアップのつみかさねによって、「全産業平均」から「主要企業平均」の水準に達した。?A労働時間の短縮(週43時間を38時間に)、長期臨時従業員全員の正社員化、年休改善、定年延長、生休の一期間二日有給化、?B年齢調整(晩学調整)制度と中途採用者の経験調整制度等、今日の日航の労働条件の水準は、そのほとんどが小倉執行部時代の日航労組の活動によって獲得したものであった。

 ちょうど、この時期は日航にとって収益の低下から無配転落、さらに翌年は経営赤字を記録するときにもあたっている。

 日航労組の『最終陳述書』は、次のように書いている。

 会社は、日航労組が小倉・境執行部をいただくことによって御用組合から脱皮し、一般組合員の要求を民主的手続を通じてくみあげ、その要求実現のためにたたかうまともな組合に成長したことに危機感を抱き、日航労組を昔日の御用組合の姿に戻すための数年間(昭和37年から40年)にわたり、あらゆる手段を用いて介入した。介入のパターンは一方において組合執行部を攻撃(?@組合役員・活動家に対する人事異動により一般組合員と接触を断つ、?A正当な組合活動への大量処分、?Bこれらを推進するうえで障害となる労働協約を廃棄する、?C管理職を使って、活動家の役員立候補を阻止する、など)するとともに、反執行部派を育成強化し、これに執行権を握らせるよう画策する(?@反執行部派に対する資金援助、?A職制機構を通じての役選票よみ等選挙対策の推進、?B職制に反執行部的意識を注入するための監督者研修に名を借りた思想教育、?C反執行部派に「今の執行部は問題解決の機能を失った」とアピールさせるためのお膳立てとして、団交形骸化、膠着の事態をたえず生じさせる)というものである。そして、足かけ4年にもわたるこの種の介入をやりつくしても、なお御用幹部が多数組合員の支持をとりつける可能性のないことを会社が知ったとき、組合を分裂させるという方向転換が指令されたのであった。

 小倉寛太郎氏が二期つとめた委員長の座を降りるのは1963年6月であるが、日本航空の労務管理がどのようなものであるかを端的に示しているのが、小倉元委員長に対する海外たらい回し人事であった。

 すなわち、小倉氏が委員長の座を降りて本社予算室に復帰して一年にも充たない翌年早々カラチ支店への転勤を命じられ、66年3月にはテヘランへ、70年1月にはナイロビへと、テレックスがたたきだす一片の命令によってつぎつぎに海外をたらい回しされるのである。

 小倉氏に対しては、小倉執行部によって日航労組が初のストライキを実施した1962年当時から、すでに会社首脳部のあいだでは「くびにしろ」という声があり、そのために入社時にさかのぼって、小倉氏の勤怠状況が調査されている。本人が無遅刻・無欠勤であったため目的を果たせず、63年秋には新町予算室長が小倉氏に「おまえみたいなアカがこの予算室にいるのは非常に残念だ。とっとと出ていけ」といった事実さえあった。そして、その翌年早々にカラチ転勤となるのだが、彼には海外支店の総務主任の職務内容をなす経理・財務・調達・人事などの仕事についての経験はなく、しかも当時、組合の会計監査の地位にあり、母親と未成年の弟を同居して扶養中という生活環境の上からも転勤に不向きな条件にあった。従って、このような異動は常識では考えられないことであった。

 日航の「海外在勤員の在勤期間基準」によれば、生活条件の劣悪な「特別地域」における在勤期間は二年とされており、赴任に先だって小倉氏は当時の松尾社長に、「会社の規定では任期二年ということになっているので、二年たったら必ず帰してもらえるのでしょうね」と念をおしている

。これに対して松尾社長は、「二年先のことはわしにまかせろ。悪いようにはせん、必ず責任を持つ」と答えている。

 だが二年後には、支店開設のため総務主任としてテヘランに赴任させよというテレックスに接し、このことで、通常ならばこの人事について事前に本社から相談にあずかっているはずの支店長も、「あなたの問題に関しては私などの及ぶところではない、私にいくらいっても無駄である」と、小倉氏にいったという。

 テヘランに赴任直後、小倉氏は母親の訃報で休暇をとって帰国したが、このとき松尾社長は彼の顔を見るなり「すまん、すまん」といい、「テヘラン支店の開設が軌道に乗ったら帰してやるから、それまで待て」となだめているが、結局この約束も果たされず69年いっぱいテヘラン勤務をつづけさせられたあげく、さらにナイロビへ転勤させられるのである。

 小倉氏がテヘラン支店に勤務していた1968年秋頃、本社人事部長安辺敏典氏が出張した際、小倉氏は「いつ帰してくれるのか」といったところ、安辺人事部長は「あなたが帰っても組合活動をやらない、組合と縁を切るという約束をすれば、それは簡単なんだけれども…」と、組合脱退と帰国とを取り引きする話を持ちかけている。

 このとき小倉氏は、「だいたい会社が組合を分裂させてから、第一組合が非常に困難な状況になっているというのは、外地にいる私も知っております。私がかつて委員長をやっておりましたときに私を信用してくれた人たちが多く第一組合に残って、困難に負けずに頑張っている。そこで男として「私はもう組合をやめましたよ」というようなことがいえると思いますか、あなただったらどうします」と反問して、人事部長の誘いをことわっている。

 ナイロビへの転勤命令は、営業所長と異なり、部下を持たない販売駐在員で、現地人ならともかく、日本人としては前例のない地位におかれたのである。

 文字通りカバン一つでナイロビに赴任したのち、1970年の暮れ、年末年始を日本で過ごすために休暇をとって帰国した際、労務担当の斉藤進専務は、「わしの目の黒いうちには、おまえは帰さん」と断言し、72年3月には、業務実態はほとんど変わらないまま、ナイロビ勤務を長期化させるため、「ナイロビ営業所長に昇格する」という辞令が発せられ、このとき以来、会社は小倉氏が「管理職」になったとして、小倉問題に関する日航労組との団交を一切拒否するという挙にでるのである。

 結局、1972年の連続事故の問題に関連する国会の審議の過程で、小倉問題についての追及もされたことが契機となって、小倉氏は73年10月に、9年7ヶ月ぶりでようやく祖国の土を踏むことができたのである。だが、この間小倉氏が家族と生活をともにすることができたのは、戦乱や教育施設の不備、また支店開設準備には家族を収容する社宅の不備など、さまざまな事情が重なったため、全体の三分の一にすぎなかった。

 たしかに、国会審議の過程で問題になってから帰国できたようなものの、日本航空ではナイロビにつづいて、西アフリカのラゴスへの転勤を“準備”していたというのである。想像もできないような陰湿な報復人事に、日航労組を労働組合本来の姿にたちかえらせた小倉執行部に対する日航の怨念のすさまじさに、なにか“そら恐ろしさ”を感じる。このような日航の異常な“報復人事”は、小倉元委員長に対してだけ行われたのではなかった。

武装警官搭乗武装警官搭乗

武装警官搭乗(スカイマーシャル)に関する機長組合見解 2004年12月10日 日本航空機長組合 本日政府は閣議決定により、本邦全ての民間航空会社を対象に、テロ・ハイジャック対策として『スカイマーシャル』と呼ばれる武装警官を搭乗(警乗)させることを決定した。 (機長組合ニュースNo.19-109参照) 機長組合のこの問題に関する見解は以下のとおりである。 1.日本航空機長組合は、テロ、ハイジャックへの抑止力と称して行われる民間航空機へのスカイマーシャルの警乗には反対する。 2.機長組合は諸般の情勢と力量の観点から、今回の警乗措置について組合として組合員に「拒否を指示する」方針は取り得ないものの、その一日も早い中止に向け、社会的な運動を構築する。また、経営にも中止に向けた最大限の取り組みを行うように要求する。 ・ 私たちは2002年のワールドカップの警乗に際しても「武器を機内に持ち込ませない水際対策の強化なくして、武器を携行した警備員・警察官の搭乗ではテロ・ハイジャックは完全に排除できない。また、機内に武器が存在することの危険性について疑念が拭いきれない。そして、警乗による対策が現場の乗員の理解のない中で一方的に実施されてはならない」と表明してきた。また日乗連と共にこの主張を、当時警乗を企業に要請した当局(国土交通省・警察庁)、それを認知した航空経営に対し強く訴えて来た。しかし当時の警乗問題に関して、特に考慮されなければならなかったのは、米国同時多発テロ後の「航空機を使ったテロに対する国の方針が強く、社会の関心が高い」という社会情勢であった。上記の取り組みを進めるためには、世論の支持が不可欠であり、その上で当時は「限定された期間での警乗であり、時間の限られた中で利用者・国民の支持を得て取り組みを進める事は非常に困難である」と認識せざるを得なかった。 ・ しかし今回の措置は、新たに恒久的な制度として設けるものであり、乗員に事前に十分協議する時間や周知する猶予も与えずに、閣議決定後速やかに実施というのは、あまりに性急過ぎ、現場に混乱を来たしかねない。米国ではUS-ALPAとの合意の下に制度が導入されてきたように、現場の乗員の意見の反映なしに制度を導入することは進め方としてボタンを掛け違えている。さらに言えば、航空法との整合性など法的な整備も全く行われておらず、今回の警乗が航空法の目的である「民間航空の安全」や「利用者・国民の生命・財産の安全」に結びつくとの確証もない。現時点で恒久的な警乗を強引に導入することは、大きな問題がある。 ・ 旅客にとってみれば武装警官が同乗していることを知らされずに搭乗することの問題や不安感は払拭されず、またスカイマーシャルが対応する事態も曖昧であり、会社の説明にも一貫性がない。さらに乗客乗員の避難誘導などのケースにおいて、機長とスカイマーシャルの指示に差異が生じた場合、混乱が引き起こされる恐れや、特に客室乗務員に対してのスカイマーシャルの指示と、機長の指示との関係が不明確であるために、機長の権限が侵害されるという恐れもある。 ・ テロ・ハイジャックに対しては操縦室に入れさせないよう扉の構造・運用を改善したが、これは「強引には破られないドア」をその対策の根幹とするものである。従って従来の経営の説明に則れば、更に対策を強化するために必要なのは、スカイマーシャルによる「強行犯の阻止」ではなく、密かな侵入の企てを不可能とするハード上の更なる改善、すなわちトイレの移設や二重扉の設置などである。そもそも航空機内での発砲による運航の安全性について、システムに重大な支障がないことの検証は全く不十分である。こうした指摘に対する対応を十分に行わず、機長の疑問にも答えず、今回の閣議決定に至らしめた経営の責任は重大である。 3.機長組合は、現場の機長の航空法上・安全上の判断は全面的に支持する。また機長が「警乗が具体的に運航の安全に影響する」と判断した場合、その判断を経営として十分尊重するように強く求めていく。 ・ どのような事態であれ、機長の判断を尊重することは航空経営の責務であり、この点は些かも譲れるものではない。ワールドカップの警乗の際にも、このことを経営に伝え、警乗が開始された中で、万が一機長の権限と警察権が拮抗し、現場で混乱が生ずる事態が発生する事のないよう、万全の対応を本部に対して強く求めた。 ・ 今回、組合の運動が警乗を中止させるまでに至らない間も、具体的な状況に即した、機長の航空法上・安全運航の観点での決定は、全面的に尊重されるべきである。機長権限と人権の擁護を組合の総力で実行していく。 ・ 経営も現時点では、航空法上の機長の権限はこれまで通りである、と発言しているが、行政からの圧力がないとは断言できない。そうした場合にも、いたずらに機長に説明を求めることなく、機長の判断を尊重するのが経営・運航本部の責任である。 4.今回の抑止効果を狙った制度とは別に、具体的な不安全要素、即ち不法妨害行為が発生する可能性がある状況においては、当該運航は経営の判断で中止しなければならない。今回の「抑止効果を狙った警乗制度の成立」が、こうした運航に拡大・悪用されることがあってはならない。機長組合は「始めに運航ありき」との方針は絶対に認められない。 ・ 昨年末、不審者と疑われる搭乗者を確認した旅客便は、スカイマーシャル等の警乗がない限り米国への乗り入れは認めないとの米国政府の方針が伝えられたが、機長組合の「そのような具体的な情報のある便は運航すべきでない」との主張に、経営は「運航の安全確保は航空会社独自の判断」として、米国に警乗つきの運航を回答するには至っていない。しかし一方で経営は「警乗制度がないことも判断要素」とも述べ、警乗制度が成立した場合の考え方には含みを残している。機長組合は警乗制度の成立にあたり、経営が従来の方針を変更することは断じて認められない。

ここが違うGood ////!ここが違うGood ////!

1月~3月、放映された副操縦士を主人公としたドラマを本物・機長が検証  ■B747-400もB777も操縦できるスーパー副操縦士・新海君・・・・でも フライトシーンで実写される航空機はB747-400であったりB777であったり。どうやら2機種以上でも乗務できるようですね。事実は大昔は混乗といって複数の機種を乗務したりしたようですが、スイッチの位置やONーOFFの方向が逆だったりと不安全なこと、資格維持も大変なことで現在は乗務機種はひとつです。ちなみに客室乗務員は複数の機種を乗務します。■遅刻!と機長をホテルに残しショーアップ・・・・そんな ホノルル線は時差の大変なフライト。仕事前にワイキキの浜辺で寝ている余裕はないのですが、通常ステイ先ではホテルから空港までバスで行きます。ホテルで機長と副操縦士はピックアップタイムに待ち合わせて行きますので、機長を置いてきぼりにする副操縦士はいません  ■いつも同じメンバーで乗務、楽しそう・・・・でも 数名の機長と繰り返し乗務し、客室乗務員も同じグループとばかりで仲良く楽しそうなS副操縦士ですが、パイロットの現場ではまずないことです。運航乗務員はそれぞれ一月毎の乗務スケジュールに沿って乗務しますが、どんな機長ー副操縦士で組むかは、毎回のパターン(基地を離れ基地に戻るまで)で異なります。勿論、初対面ということも少なくありません。でもお互いがプロ、それぞれ資格を持ち、要求されたレベルあるわけですから職務にはまったく支障がありません。機長も副操縦士も会社組織としてはそれぞれ機種別の乗員部などに配属されていますが、自分の所属長と1年間まったくフライトで顔を合わせないこともしばしばあります。その為、フライト業務を人事考課などで評価することは大変むずかしく「人事考課は乗員に馴染まない」状況にあります。ちなみに客室乗務員の場合は、基本的にはグループで長期間のスケジュールに沿って乗務することになっていますが、機種やフライトによって乗務員数が少なくなったりするのでグループを離れてフライトする場合もあります。1年間乗務していても、同じ客室乗務員と顔を合わすことは滅多にないことです。毎回、黒木 瞳さんのようなCAと飛べるなんて、何と・・・・・。 ■千歳にダイバート、そして給油して成田へ・・・・でも 中国線を乗務し、目的地成田へ、しかし成田は濃霧。関空も悪天。機長は千歳へダイバートを決意するも目的地成田への到着をあきらめない。千歳ですぐに給油して成田へ飛び立ったが・・・・・実は成田空港は閉まっていたのです。ご存じの方も多いかと思いますが、成田空港は騒音問題があり、23時~6時までの間の離着陸が厳しく制限されています。夜飛び立った太平洋便などが急病人等で引き返す場合などは別ですが、一旦、千歳へ降りた便が、再び成田へ向け飛行し夜中に着陸するケースはありません。 ■監査フライトに機長がフェイルしたら、引退・・・・そんな JALでは監査とは呼ばず査察と言いますが、機長は1年に1回、実機とシミュレーターそれぞれで定期審査を受けなければなりません。また路線資格を得るときにも路線審査を受けます。それらの審査には査察運航乗務員があたります。いわゆるチェックフライトでは、ドラマ同様、知識や運航全般を審査されますので日頃のフライトにはない緊張をもって行われますし、勿論、所定のレベルを下回ると判断されるとチェック不合格となる訳ですが、即刻、引退を決意というものではありません。当然、再審査(リチェック)のチャンスもあります。尤も、毎日の運航にあたっている機長ですし、審査前には準備を怠らず望みますから、フェイルとなる率は当然、極低いものです。医師や弁護士など国家試験として取得する資格の中でも、こうした定期的な審査によってレベルを管理している資格は見当たりません。パイロットという職業の特殊性が表れている制度と言えるでしょう。 ■全社員揃って脱出訓練・・・・・本当は JALでは定期救難訓練と言いますが、運航乗務員と客室乗務員が1年に1回、まる1日がかりで、ドラマ同様のモックアップ(客室とスライドなどを実機同様に模したもの)を使い訓練を行います。ちょっと違うのは整備士らはそうした訓練には参加しないことです。また査察乗務員が救難訓練の責任者となることはなく、この訓練を専門に担当する組織があり、教官として客室乗務員なども配置されています。訓練では、ドラマ同様、運航乗務員と客室乗務員が、業務にあたる役と乗客の役に分かれ、陸上での脱出や不時着水を想定し、実技を行うなどします。 ■どこへでも制服きたまま出掛けてしまう・・・・・ちょっと 乗務前、乗務後問わず、制服姿でいろいろなところへと出向いてしまう彼ですが、見ているとちょっと恥ずかしい。本物たちは実に照れ屋が多く、制服姿でいる時間を出来る限り短くしたいくらいです。あくまで一般的に言ってですが、制服姿になるとかなり男前があがるとのことなので、女性へのアタックには効果的かもしれませんが、何か詐欺師ぽい(実際いたようですが)ですよね。ところでドラマでも肩章を外したりするシーンがありましたが、あの肩章は金4本線が機長、金3本線は副操縦士というのはお分かりですよね。では航空機関士は???。金2・3本線(シニアは3本)に赤線が入っています。昔は男性客室乗務員の制服にも線が入っていてこれは銀線でした。世界のエアラインで「機長は4本線」というのは定番なのですが、JALでは整備士の中にも4本線を着けている人がいる、とても珍しいエアラインだと知っていましたか?  ■客室化粧室内で煙・・・・・大変かも あくまで状況の想定はドラマですからそれはそれとして、客室内含めて煙の発生など火災が疑われるケースは極めて慎重に対処する必要があります。それは過去の事故事例の中で、消火したと判断した後に、実は火種が残っていて大惨事となったことがあるからです。私たちも機内火災にはいつも十分注意するよう客室乗務員にもブリーフィングなどで指示していますが、禁止されています機内での喫煙などなきようご協力いただきたいものです。 ■最後にGood Luck!・・・・言わない いろいろ楽しませていただきましたが、最後に多くの方に聞かれた質問です。機内アナウンスなどのときに「Good Luck」と言うか?JALのパイロットは言わないと思います。私は聞いたことがありません。もし最近、聞いた方がいたら流行を敏感に取り入れる方がいたということでしょう。また親指を突き出すポーズですが、これは「Good Luck」ではなく「Roger(了解)」という意味で使います。副操縦士が交信しているのに対して、言葉で答える代りに、シグナルとして実際に使用もします。  久々の航空ドラマであり、反響も大きくとうとう毎回見ることになってしまいました。ここでは皆様の興味を盛り上げると同時にパイロットという職業へのご理解を進めていただこうと特集させていただきました。ドラマ全体としてはリアリティーや本物へのこだわりとは別のところでパイロットの厳しさや空のロマンを描いていただいたものと思います。また、航空ドラマが制作されるとするならばどのエアラインで、どのような設定となるかは分かりませんが、海外のロケシーンなどももっと入れた素敵なドラマを期待したいものです。個人的には、JALにも現存する「女性パイロット」かななんて思うのですが、皆様いかがでしょう?

123便事故機の残骸・CVR・DFDRの保存と公開に関する申し入れ123便事故機の残骸・CVR・DFDRの保存と公開に関する申し入れ

2001年8月22日 日本航空株式会社 代表取締役社長   兼子 勲 殿 5労組発 第5-3号 日本航空内 5労組連絡会議 代表   片平 克利 123便事故機の残骸・CVR・DFDRの保存と公開に関する申し入れ 私たちは、航空事故調査委員会が発表した123便事故の事故調査報告書には多くの疑問・矛盾があり、真の事故原因究明のため再調査を行うことを求めてきたところです。 しかるに、この事故から16年目を経た今年8月12日、貴職は保有している事故機の残骸を処分する意向であることを表明されました。 本件事故に関する聴聞会(1986年4月25日)において、日本航空を代表して平澤運航本部長(当時)が、事故調査委員会に対し調査すべき事項を明らかにしています。例えば、「下側方向舵上部にある上側方向舵との接触により生じたと思われる痕跡について、その発生条件の解明が必要」と指摘していますが、これらの点について、事故調査委員会の報告書では「その発生の経緯を明らかにすることはできなかった」として、解明されぬままその調査を終えてしまっています。 貴職が残骸を破棄するのであれば、これらの事項の事実解明は闇に葬られることを意味し、真の事故原因究明に向けた再調査の手立てを事故当事者が自ら摘み取る行為であり、決して許されるものではありません。 2000年1月には御遺族からも運輸省(当時)に対し、真の事故原因は究明されていないとして、その再調査を求める要請が出されています。また、本年8月12日の慰霊の園にて、御遺族の方から遺品と残骸を破棄しないよう貴職に強い申し入れがあったことはマスコミにも取り上げられている状況です。 日本航空が残骸等の関連物件を破棄するとなれば、社会的非難を浴びるのは必至です。 私たちは上記の状況から、また事故調査報告書の発表後にも数々の新たな事実が判明してきていることにも鑑み、日本航空として再調査を行うことを改めて要請いたします。 さらに三乗組では、1990年8月15日、1991年5月29日、1991年10月24日と、本件に関連した協議の場を設けられるよう要請してきました。これに対し日本航空は、少なくとも大型機の機内減圧が乗員に与える影響について話し合いの機会を持つ旨回答していますが、いまだ履行されていません。 早急に、私たちとの協議の場を再開されるよう要請いたします。 記 1. 返却された事故機の残骸・CVR・DFDRを破棄する方針を撤回し、私たちに公開すること 2. 過去の回答にのっとり、急減圧に関する交渉を行うこと 3. 日本航空独自に事故原因の再調査を行うこと 参考/聴聞会で日本航空が指摘した項目(要旨) ?@ 圧力隔壁の飛行中の破損と、墜落時の破損との区別確認が極めて重要。 ?A ボディドアシール(水平安定板取付部の胴体開口を塞ぐ胴体側可動ドア)の圧力リリーフ機能とあり得た開口の大きさに対する調査が必要。 ?B 垂直尾翼、APU防火壁の破壊過程および原因推定のため、更に破損部品の回収が必要。