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乗員組合に対する会社の労務政策の歴史乗員組合に対する会社の労務政策の歴史

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった日航労組元委員長 小倉寛太郎氏は9年7ヶ月もの長期にわたり、海外の辺地をたらい回しにされました。(“実録”沈まぬ太陽アフリカ編へ)
更に悲惨なのは、乗員組合の役員4名が正当に行われたストライキを違法とされ、これを理由に解雇されたことでしょう。この不当解雇を撤回させるまでに8年2ヶ月の歳月を費やしました。(解雇撤回までの経緯はこちら)
小説の背景となった時代を中心に、日本航空の経営がとってきた労務対策の数々を年表でご覧ください。

 
1951年 日本航空創立
1960~1961年  
日航労組委員長に小倉氏就任

 初めてのジェット機DC-8がサンフランシスコ線に就航、日本人により運航が始められた。会社は外国人乗員をジェット機に乗せないと公約し、国際水準、IASCO(乗員の派遣会社)並にという乗務手当の要求を突っぱねる。組合との約束もあり、比較的賃金も安かったレシプロ機へ外国人乗員を振り向けた。さらに、移行後の穴埋めに外国人乗員追加導入。
 

1962年  
日航労組委員長に小倉氏再任

・会社はミリオンダラー作戦と称し、年々増大する運航直接費、整備費、乗員訓練等の節約に関して「合理化」の諸対策を立てる。

1963年   ・乗員不足に困った会社は61年の公約を破り、DC-8に外国人を乗せると通告。組合は機長4人、航空機関士4人に限り認め、争議時には外国人クルーを使用しないという覚書を会社と取り交わす。
 
 12月

  ・DC-8が沖縄上空で訓練中、エンジン2基の脱落事故。
 
1964 年   小倉元日航労組委員長、カラチ支店へ転勤。
 
9月

 
・会社は覚書に違反し、外国人6人をコンベアに乗務させると通告。訓練は既に始められていた。
会社発言「組合員のプロモーションのことを考えて善意でやった」「セーフティキャプテン(教官機長)だから機長でもクルーでもない」「争議時に外国人クルーを使用しないとあるのは協定書の印刷ミスである」

・乗員編成権は会社にあるとし、労使間の解決を見ないまま、カイロ-カラチ間に乗務する航空士を降ろすことを強行した。降ろした航空士をオリンピックによる太平洋線の大増便に当てたかった。

・協定違反や労使慣行無視が相次ぐ。
 

11月

 
・会社、一時金の業績リンク制を提案。

・組合、外国人導入、航空士問題に関し、指名ストライキを決行。
 

12月

 
・賃上げ、年末手当に関して、指名ストライキを決行。

・会社は12月の組合のストに対抗し、違法ロックアウトを行う。
 

1965年

  ・会社は、違法ロックアウトを再び行ったり、社長を始め管理職がいろいろな言葉を使って、不当労働行為を承知で組合の切り崩しを図る。
2月   ・CV880が壱岐空港で離着陸訓練中、炎上事故。

5月   ・前年11月と12月のストを違法とし、組合役員4人を解雇。(その後の裁判等で、違法はなかったことが明らかにされた。関連ページへのリンク)

・機長懇談会、乗員組合から脱退。

7月   ・日航労組が分裂攻撃を受け分裂、日本航空民主労働組合(民労)の結成。
 
12月  
・日整労組が分裂し、日本航空新労働組合(新労)結成。(民労と新労が合併し、68年に全労ができる。旧日整労組は日航労組と合併)また、客乗組合が分裂独立。これらの新しい組合は生産性向上に積極的に協力する方針を立てる。

・DC-8エンジン火災でオークランド空港へ緊急着陸。
 

1966年

   
5月

  ・会社は被解雇者を次期執行委員に選出しないようにという管理職による干渉を行う。また、争議行為として行っているリボン着用に対し、管理職や機長を使い不当干渉を行う。
 
6月

  ・共産党との関連云々の噂を流すなどして、組合に対する攻撃を更に強める。そしてついに月末に乗員組合、分裂。最終的に第一組合である乗員組合員は被解雇者を含め8名となった。
 
7月  
・運航乗員組合が発足。

11月   ・運乗組合、民労、新労、客乗は業績リンク制による年末一時金に調印。

1967年

 
 2月に67~72年度の六ヶ年計画が、7月には六ヶ年計画を踏襲した68~74年度長期計画が策定される。これらの計画の前提として、日本出入国旅客数が、7年間に約3倍になると想定し、69年度までは比較的安定した成長を見込むものの、その後、ジャンボ導入やパシフィックケース(PA,NW以外の太平洋線参入)等による供給過剰、競争激化から、相当困難な時期に

なると予想(危機宣伝)。そのための「力の準備」として、後に「伸び過ぎた翼」と批判される、急激な事業規模拡大(6年間で2倍にする機材計画)と、それを支える「合理化」を押し進めていく。
 
5月   ・「合理化」策の一環であるとも言える、職種統合(航空機関士→副操縦士、航空士→航空機関士→副操縦士)と、セカンドオフィサー制度導入を決定。それと同時にSCNと呼ばれるドプラーレーダーを使った自蔵航法を進める。(ドプラーレーダーの精度が悪く、ロランを併用しないと飛べなかった。)

・外国人導入により、飛行機の稼働が上がり、昼間に整備する時間が大幅に減ったため、夜間整備専門の課を設ける。またこの年からエンジンのオーバーホールの間隔を無節操に延ばしていく。

8月  
・全社でZD運動を始める。これは作業者の自覚によって無欠陥の作業を行うことを目指したもので、たとえば整備の現場では、飛行機が1分遅れたらレポートを提出しなければならないようなものだった。
12月  
・会社、運乗組合と「事業計画との関連における乗員計画の合理的推進」「運航業務全般の効率化の推進」を協力する確認書(「合理化」協力確認書)を締結。

 組合を分裂させた会社が、着々と「合理化」を進めていく中で、運乗組合内でも種々の問題について、「与えるばかりで何も得ていないのではないか」という疑問と不満の声が、乗員組合の速報から情報を得た組合員の中で、大きくなりつつあった。

1968年   ・会社はひたすら事業規模を拡大し大きな収益を上げていく。乗員不足は更に進み大量の外国人乗員を導入。

4月  
・乗員組合員に対し、機長昇格差別(詳細はこちら)。

・運乗組合、長期賃金協定(3年に一度の交渉のため、業績リンク、労働協約とともに、組合活動を弱体化させる三本柱の一つだった)を締結。

9月   ・運乗組合は労使協議制(システムは現在の経営協議会と同じようなものだが内容は、会社の方針を説明して了承させるという性格のもので、団交を制限し、労使対等でなくす効果があった)に調印。
 
11月  
・サンフランシスコ沖不時着事故。事故原因は、新型機の新しい装置の訓練がわずか1時間半で、クルーが操作に慣れていなかったこと、日本人の機長と外国人の副操縦士間のコミュニケーションの問題とされている。

 幸い死亡事故にはならなかったものの、「合理化」の歪みによる事故がついに起こってしまった。日航は世界で一番安全な航空会社と言われていたが、4月の段階で、過去15年間の全損事故発生率が世界平均の2倍になっており、旅客死亡事故がないと言うだけで、決して安全な会社とは言えない状態だった。
 

1969年
 

  ・整備の現場に、サンプリング方式導入。運乗組合にはポーラー線の2ランディングを提案。(組合は拒否)

1月

 
・労働協約(ユニオンショップ制を含む)についての三労組会議開催。

 労働協約とは、労働条件以外の労使間の基本的な取り決め。組合活動に関する事項、ショップ制、人事に関する事項、争議に関する事項(争議予告についてなど)を含む。会社の提示したものは、

ストを制限し、その他については労組法などの法律並かそれ以下という、組合にとって不利なものだった。
ユニオンショップ制とは、組合を除名された者を会社は解雇しなければならない制度。元々組合の団結を保護するためのものだが、組合の不満封じのため、当時会社の提示したものは、原則として解雇(尻抜けユニオン)とし、実質的に解雇は会社の権限に属する。会社は御用組合を使って会社に都合の悪い社員の処分もできる。
 
7月

  ・運乗組合、ユニオンショップ制についての全員投票を行う。規定投票数に達せず、2回不成立になり、3回目の投票(10月)でユニオンショップ条項が否決される。

1月

  ・ユニオンショップ導入に失敗した会社はこれをはずした労働協約を提案。運乗組合で行った、この会社提案についての一般投票に不正が発見される。ニセの投票用紙が200票余り(すべて賛成)混ざっており、不正票を除くと有効票が規定投票に達せず、投票は無効となる。
7月

 
・B747就航。ここにも「合理化」が持ち込まれ、以降訓練でシミュレーターによる緊急降下、油圧故障などの訓練を行わないという簡略化されたものだった。

・ユニオンショップ、労働協約締結失敗で焦ったのか、会社は執行部が交替する直前に機長管理職制度導入を強行。

12月

 
・運乗組合初の全員組合大会(それまでは代議員大会が最高議決機関)が行われ、「従来のような、組合本来の任務を果たせない労使協調ではなく、労使対等という原点から出発・・・」という運動方針を可決。
 

1971年
5月 ・運乗組合、乗員組合の解雇問題につき、見解を表明。「全ての問題を、機長を含め、全乗員の問題としてとらえるものであり、その方針からも、関係各位におかれましては、従来の経緯をはなれ、早急に円満な解決をはかるため、真剣な努力をされるよう要望いたします。」
 
6月
・運乗組合は、長期業績リンク協定における自動延長はしないことを決定。

10月 ・整備士死亡事故。原因は時間に追われ安全措置をとらなかったため。
11月 ・乗員組合は年末要求に初めて安全要求を加える。

・運乗組合は単年度で一時金を要求(ここ数年、創業以来の好業績を上げたが、長期賃金協定、業績リンク導入後、それまで航空三社中一番だった賃金、乗務手当、一時金が最低になった)、会社はこれに対し、団交を途中退席したり、回答の引き延ばしを行う。そして単年度で回答している日航労組と乗員組合に対しては、露骨な差別回答をすることにより、運乗組合を更に揺さぶる。結局運乗組合は長期協定業績リンク制で妥結。

 
1972年
3月

・会社の不当労働行為が国会でも取り上げられ、労働大臣が会社に注意。「幸いにして今日まで日航には、たいした事故はないが、今その話を聞いてみると、不思議に思われるくらい、内部にいろいろな事件が起きている。しかし、航空産業は、まさに安全第一以外にない。このような労使関係が大きな事故につながることがあったら大変だ。・・・」

4月

・運乗組合、初の安全要求、乗員組合解雇撤回要求を決定。また、賃金要求に関してはスト権投票を行うことを決定。
運乗組合執行部の解雇撤回要求に対する見解:「この問題を長引かせているのは、同じ職場の乗員組合より分裂した組合(運乗組合)が、口をつぐんで、これまで十分な行動をとっていないことが原因であるとしなければならない。更に考えれば、分裂そのものが、口をつぐんでじっとしていることをねらったものだったからではないでしょうか。」

5月

・管理職乗員(機長)2名が、仙台訓練所でスト権投票に対する介入行為を行う。また会社労務が発行するILBだよりを使ったり、委員長に対する個人攻撃などあらゆる手を使って介入を行う。これに対し労働省の課長が勤労部長に、不当労働行為をしないように注意。

・羽田空港において離陸時、滑走路逸脱事故。

・運乗組合は介入に負けず、初のスト権を確立(長期賃金協定を拒否し、単年度で要求することに決定)
 

6月
・会社は乗務手当に関する運乗組合との団交を拒否、延期。

・ニューデリーでの墜落事故。
 

9月
・ソウルでの滑走路逸脱事故。

・ボンベイ誤着陸事故。

 会社の安全運航強化対策:「人格面での教育、審査をより厳格に行う」「規定

11月 ・モスクワでの墜落事故。

1973年
    7月 乗員組合員4名の解雇撤回。
 
 10月 小倉元日航労組委員長、海外勤務より帰国。
 
11月

・運乗組合、乗員組合へ再統一。
 
1975年 ・アンカレジでのB747の誘導路からのスリップ事故。
 
1977年
・アンカレジでの貨物機墜落事故。

・クアラルンプールでの墜落事故。
 

1982年 ・羽田沖墜落事故。
 
1985年
8月

・123便事故。
 
9月

小倉氏2度目のナイロビ勤務。
 
12月

・伊藤副会長、山地社長、利光副社長の新体制発足。
 
1986年
1月 ・伊藤副会長、新聞の対談において「まず経営側がかつての分裂労務政策を反省するなど、やるべきことをやらなくてはならない。安全も含めて経営問題の答えは現場にある」と発言。
 
  2月 ・会社は組合に対して副操縦士地上業務の中止を回答。
 
6月
・機長組合発足。

小倉氏、会長室部長に就任。
 

10月

・橋本運輸大臣は伊藤会長に対し、「話し合い」の名目のもとで労使問題に介入。全労幹部との関係が取りざたされていた三塚元運輸大臣も、週刊誌の記者に対し「全労組合のためにやっている」と答える等、全労と政治家の癒着体質も明らかになる。
 
1987年
2月 ・先任航空機関士組合結成。
 
3月 ・伊藤会長辞任。
 
4月 ・日航開発、HSST、ドル先物買い等、不正経理や経営疑惑が明るみに出る。
 
7月 小倉氏、3回目のナイロビ勤務 。
 
この後日本航空経営は、乗員組合と結んだ勤務協定、
送迎協定等を一方的に破棄し、
東京地裁に提訴されました。

この裁判は会社が敗訴し、東京高裁に控訴しています。

「沈まぬ太陽」乗員版・解雇編「沈まぬ太陽」乗員版・解雇編

会社の思うようにならない乗員組合に対し、会社は組合の役員選挙への介入、脱退工作などの不当労働行為を行い、ついには4名の組合役員を、前年行った2度のストライキの責任追及を理由に解雇しました。 しかし、争議理由、争議予告義務や、争議の規模、態様についてもすべて正当なものと労働委員会や裁判所に認められました。 解雇撤回まで8年もの歳月を費やしたのは、16もの第三者機関の判断が下されるほど、会社が頑なに解雇撤回を認めようとしなかったからです。その間の詳しい経緯を日航乗員小史より見ていきます。  「解雇・差別撤回に関する闘い」運乗成立と組合統一にも触れて  ‘65年(昭40)4月27日、日本航空は前年(昭39)11月及び12月に乗員組合(以下組合又は第一組合)が実行したストライキは「争議権濫用に当たる違法ストライキであり、これを企画実行した責任者」として、小嵜誠司(おざき せいじ)委員長・田村啓介(たむら けいすけ)副委員長・藤田日出男(ふじた ひでお)書記長・丸山巌(まるやま いわお)教宣部長(何れも当時)の四名を懲戒解雇した。  これに対し一ヶ月後の同年5月27日 、組合は「ストライキは適法に実施された。解雇は無効で社員としての地位を保全せよ」との仮処分を求めて東京地方裁判所(以下地裁)に提訴した。  同日、機長会は突然、「機長は全員組合から脱退する」旨を声明した。  組合は、提訴以来僅か十ヶ月後の‘66年(昭和41)2月26日、地裁仮処分に勝訴したが、会社は解雇を撤回せず、同地裁に「仮処分異議申し立て」をしたため、組合は直ちに同年3月26日、地裁に本訴を提起した。  一方「機長無し」で頑張り、仮処分裁判に勝訴して勢いづいた組合は、裁判所(司法機関)での判断を基盤にして、同年4月24日「組合役員の解雇は、組合潰しの不当労働行為」として東京都労働委員会(行政機関・以下都労委)に「原職(乗員)復帰の救済命令」を求めて申し立てを行った。  組合は、解雇事件を裁判所と労働委員会、即ち司法と行政の二本立てで闘うことにより解雇の不当性を広く社会に明らかにするという方針をとった。  組合役員を解雇しても、機長を脱退させても活動力の落ちない組合に対して、会社は‘66年(昭41)7月25日、一部組合員機長を利用して運乗組合を発足させた(注1)。  組合は、会社の激しい分裂攻撃の前に極小組合(組合員8名)に転落し、財政的にも心理的にも辛酸をなめたが、当初からの方針を堅持して闘うなか、分裂から一年後の‘67年(昭42)8月1日、都労委に於いて組合申し立て通り、4名の「原職復帰の救済命令」を勝ち取った。  会社は、弱小組合の「勝利」など意にも介する事なく、命令を履行せず直ちに同年9月13日、中央労働委員会(以下中労委)に再審を申し立てた。≪労働組合法は、再審の申し立てをしても初審命令(本件では都労委命令)は履行しなければならないと定めており、法無視の傲慢な会社姿勢が、後述する「会社に対する過料(罰金)」の原因となる≫ 都労委に於ける勝利にも拘らず、会社と運乗(第2組合)執行部の執拗な介入・差別の攻撃を受けて、組合の活動は低迷気味であったが、‘69年(昭44)を迎え、解雇されていない組合員(4名)らに対する不当差別を都労委に申し立てるなど新たな闘争が加わり、また運乗内では組合民主化の兆しが見え始めた。  これらの状況変化と並行するように、裁判や労働委員会での勝訴が連続した。‘69年(昭44)4月14日には、組合員築野淳司(つくの あつし)・山田隆三(やまだ りゅうぞう)らに対する機長昇格に必要な国家試験の「受験差別」について都労委に救済の申し立てを行い、同年8月18日には救済命令を得た。  さらに受験日確保のため築野組合員は、年次有給休暇(年給)を会社に要求したが認められず、地裁に「年給取得」の仮処分を求めて提訴し同年9月10日勝訴した。  解雇事件に於いては、‘69年(昭44)7月2日、組合は都労委に続き中労委でも、「原職復帰の救済命令」を勝ち取り、二審制を採る労働委員会での闘いは三年余りで完勝したが、会社は同年8月1日、今度は中労委を相手に「命令取消し」の行政訴訟を地裁に提訴した。  同年9月29日、地裁での本訴裁判に於いて組合が完全勝訴、裁判所執行官がバックペイ(賃金未払い分1,800万円)の差し押さえのため、本社及び中央運航所(羽田オペレーションセンター)に出向いた。会社は差し押さえ寸前、自ら全ての金員を組合に支払った。しかし解雇は撤回せず、同年10月11日東京高等裁判所(以下高裁)に控訴した。(会社は「仮処分異議申し立て」も棄却され同じく高裁に控訴した)  翌9月30日、かねて中労委から「会社は原職復帰の命令を履行していない」との報告を受けていた地裁は、会社に対し「中労委命令に従って直ちに原職に復帰させよ」との「緊急命令」を出した。徹底抗戦の会社は直ちに9月25日「緊急命令変更」の申し立てをしたが、同地裁は11月19日これを棄却した。  中労委(行政機関)命令を地裁(司法機関)が支持し、その履行を命じたことは、会社にとって大きなダメージとなった。  会社はこの事態を打開するカギを職場に求め、ユニオンショップ制を含んだ労働協約を運乗と締結することによって、仮に会社が法的に解雇を撤回せざるを得なくなっても、職場が受け入れないという体制をつくり、被解雇者らを排除しようと企てた。  しかし、運乗組合員の反発は強く、大会でユニオンショップ条項については全員投票にかけることが決まって、執行部独断による会社との闇取引は回避された。  全員投票は2回の不成立の後、第3回目で否決されたが、執行部は若干の修正をほどこして4回目の投票に持ち込んだ。

日本航空機長組合 – Japan Airlines Captain Association日本航空機長組合 – Japan Airlines Captain Association

 2007年10月1日 日本乗員組合連絡会議 日本の航空事故調査は、真の事故原因を調査して同種事故の再発を防止するという点で、まだまだ不十分な現状となっています。 私たち定期航空に働くパイロットは、国際的な基準に沿って事故調査を充実させ、公正で科学的な事故調査によって将来の航空の安全に寄与できるよう、航空・鉄道事故調査委員会航空部会を以下の提言そって改善し、必要な法律の改正を行うよう求めます。  日乗連の提言1. 国際民間航空条約に準拠し、事故調査委員会設置法に以下の趣旨を含める ・ 事故調査の唯一の目的は将来の同種事故の再発防止であること ・ 罪や責任を課する手続きとは切り離すこと ・ 調査に関して得られた全ての資料を安全向上の目的以外に使用させないこと ・ 新しく重大な証拠が見つかった場合、あるいは事故調査報告書に誤りが認められた場合は再調査を行う ・ 再調査に必要な証拠物件は永久保存とする ・ 事故調査終了前に原則として関係者による意見聴取会を公開で行う ・ 事故調査報告書には原則として安全勧告を含める ・ 国民の安全を図るため、可能な限り迅速に調査を行う。事故調査は1年以内に終了することを原則とし、3ヶ月程度で事実報告書を公表する。1年以内に調査が終了しない場合は、1年程度で現在までの調査内容および今後の見通しを含めた中間報告書を公表する   2. 事故調査機関の充実を図る ・ 国土交通省から独立させ、内閣府に所属する3条機関とする ・ 事故調査機関は調査に必要な活動を支障なく行うための権限を持つ ・ 予算の充実を図る

日航ニアミス事故裁判 管制官無罪判決に対する機長組合声明日航ニアミス事故裁判 管制官無罪判決に対する機長組合声明

<判決に対する見解> 01年1月31日に起きた日本航空907便・958便のニアミス事故で当該管制業務を行っていた2名の管制官が業務上過失致傷罪に問われた裁判で、東京地方裁判所は2006年3月20日、2名の管制官に対し無罪判決を言い渡した。判決理由については今後詳しく分析するが、日本航空機長組合は、無罪は当然であり、「本件異常接近が生じて乗客らが負傷したことに対する刑事責任を管制官や機長という個人に追及することは、相当でないように思われる」とした裁判官の判断を高く評価する。 また、判決は958便・907便双方の機長の判断についても、事故の法的な責任はない、と断定しており、当該907便の負傷者救出作業中に機長らの制止を無視して操縦室に入り込んだ当時の警視庁や、昨今の「乗客の負傷が発生すれば、誰かの責任を追及する」との、検察・法務当局の頑ななやり方にも大きな警鐘を鳴らしたものと言える。 当該事故は、航空機の運航にかかわる巨大なシステムの中で起きた、いわゆる『システム性の事故』であり、「個人責任の追求は誤り」との、航空労働者の総意が正しかったことが、社会的に認められた判決であったと言える。この数年の間に、社会の安全を揺るがす事故が頻繁に起こるなかで、事故の原因追求と再発防止、責任追求について社会の捉え方は大きく変化している。今回の裁判所の判断は、正にこうした動きに警察・検察の動きが取り残されている実態を明らかにした、と言うことが出来る。 <現在の識者の認識> 『日本学術会議 人間と工学研究連絡委員会-安全工学委員会報告<事故調査体制の在り方に関する提言>(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/data_19_2.html)』によれば 「事故原因の究明のためには、技術的な面以外に、人間や組織の関与、つまりヒューマンファクターの解明を行うことが不可欠である。したがって、事故の真の原因を探り、再発防止の教訓を引き出すためには、事故当事者の証言をいかに的確に得るかが重要な課題となる。しかしながら、証言者自らが法的責任を追求される恐れがあるときには、有効な証言は得にくいという問題が生じている。そこで、事故調査においては、個人の責任追求を目的としないという立場を明確に確立することが重要であり、この立場をもとに調査を行えば、真相究明が容易となり、類似事故の再発防止、安全向上にとって貴重な事実が明らかになることが期待される。」 とまとめ、 事故責任(刑事責任)を問う範囲 について ?@ 事故発生時における関与者の過失については、人間工学的な背景分析も含めて当該事案の分析を十分に行い、被害結果の重大性のみで、短絡的に過失責任が問われることがないような配慮を求める。 ?A システム性事故、組織が関与した事故の要因分析も十分実施し、直近行為、直近事象だけではなく、複合原因、管理要因などの背後の要因を明らかにし、事故防止に役立てる。 と提言している <検察当局は控訴を断念せよ> 判決において、「管制指示が直接事故につながったとは言えない」「刑事責任を管制官や機長という個人に追及する事は相当でない」と、事故が複合的な要因によって起きたことを認知し、かつ、複雑なシステムに関わった個々人の責任は追及できない、とした点は、こうした社会の要請に基づいた判断であり、今後の社会の安全性向上に向けた動きをより正しい方向に導くものである。 検察当局は既成の法概念にとらわれることなく、こうした社会の安全に対する真摯な要請に応えるべきであるが、未だにマスコミの取材に対して「ミスがあった以上、刑事責任は問うべき」と主張し、「懲罰万能論」とも言うべき時代錯誤の認識を露呈している。検察のこうした主張は社会正義に反している。私たちは検察当局が判決を世論の反映として重く受け止め、民間航空の安全と事故の再発防止を阻害する控訴を断念するよう強く求めるものである。 機長組合は、今回の無罪判決を、今後のシステム性事故を防止し社会の安全、とりわけ航空安全の確立への原点と捉えて、「犯罪者探しの調査」から「真の再発防止に向けた事故調査体制」の構築が社会的利益により合致すると確信し、これにむけた法体系の整備と社会的合意に向けて産別の仲間とともに強く取り組んでいく。 2006年3月23日 日本航空機長組合