Menu

なぜいくつも組合があるのか・・・なぜいくつも組合があるのか・・・

第1章

 ~乗員組合創成と労務政策~ 

◆日本航空設立・・・外国人乗員での出発

◆1954年 乗員組合結成と労働条件の向上

◆経営側の体制強化

◆初めてのストライキ決行(組合役員4名の解雇)

◆熾烈を極めた分裂工作 その?@

第2章

~運航乗員組合の民主化と機長全員管理職制度~ 

◆分裂後の労働条件の実態

◆御用組合から自分たちの組合へ

◆熾烈を極めた分裂工作 その?A

第3章

 ~労務政策が生んだ大きな代償、航空事故~ 

◆連続事故

◆物の言えない職場

◆日本航空の労務姿勢がもたらした事故

第4章

 ~機長組合設立への道のり~ 

◆機長養成訓練に持ち込まれた労務手法

◆機長会(親睦団体)から機長組合へ

◆日本航空経営の管理強化、営利優先、安全軽視の姿勢は変わらず

◆御巣鷹山123便事故を契機に高まる労務政策への批判

:1986年ついに機長組合設立

統一宣言 

年表「日航乗員闘いの軌跡」 

~乗員組合創成と労務政策~

第1章

◆日本航空設立・・・外国人乗員での出発
1951年8月1日に日本航空株式会社(旧会社)が設立されました。しかし、まだ航空機の製作、組み立て、所有及び運航は認められませんでした。1952年4月にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本の空の自主権が回復し、これに伴い7月1日に羽田空港が返還されました。そして7月15日には国際民間航空条約(シカゴ条約)に準拠した新航空法が公布施行されました。翌1953年8月1日に「日本航空株式会社法」(日航法)が公布され、10月1日に旧日本航空は新会社に営業の全てを譲渡して解散し、政府出資とあわせて半官半民の日本航空が誕生しました。さらに、1954年2月2日からは国際線(東京―サンフランシスコ線)進出を果たしたのです。

この間、1952年4月9日に日本航空のマーチン202型「もく星号」(ノースウエスト航空の航空機、運航乗務員、整備員で運航)が伊豆大島三原山に衝突、乗員乗客37名全員が死亡する事故が発生し、日本航空としての自主運航の気運が高まっていきました。

1952年10月25日には自社所有のDC-4型機による自主運航を実現しましたが、日本人操縦士の養成は間に合わず、外国人操縦士の派遣による運航となったのです。日本人機長の誕生は1954年10月まで待たれる事になります。

◆1954年 乗員組合結成と労働条件の向上
日本航空が設立され自主運航が開始される中、1951年11月17日に日本航空のすべての職種を組織した、日本航空労働組合(日航労組)が結成されました。その後、1953年に日本人の航空士、副操縦士が、1954年には航空機関士と機長が誕生し、「乗員の組合を作ろう」という気運が高まりを見せ、1954年9月29日に「日本航空乗員組合」が日航労組から分離独立して結成されました。

しかし、日本人運航乗務員が誕生していく中で、外国人運航乗務員と日本人運航乗務員との間の賃金には、1960年度末の国際線機長の平均給与月額は外国人の73万3,000円に対し、日本人は13万6,000円と大きな格差が発生していました。

この格差是正について会社は「ジェット機の就航時に回答する」としていたため、乗員組合は争議権も検討して取り組みを強めました。初のジェット旅客機としてDC-8型機が就航した1960年に交渉が難航する中、中央労働委員会の斡旋を受けて暫定的な回答を得ました。さらに1961年には初のスト権を確立するとともに、中央労働委員会の斡旋も活用して交渉する中、ジェット機の労働条件に関する協定書を締結し、現在の「乗務手当保障制度・着陸回数に応じた勤務/乗務時間制限」等の基本的な労働条件を獲得しました。

 この時、ジエット機に乗務する客室乗務員の乗務手当も決まったのですが、結果として、当時の主力であったレシプロ機に乗務する副操縦士、航空士、航空機関士らは、ジェット機に乗務するスチュワーデスよりも乗務手当保障額が下回るということになってしまいました。

 当時の客乗における職務区分は、「パーサー」「スチュワード」「スチュワーデス」だけでしたが、たとえジェット機とレシプロ機の違いはあっても、スチュワーデスよりも低い賃金の運航乗務員はあり得ない、世界的にも例がない、と乗員の不満は一気に高まりました。

 しかも、会社がこの事態を改善しようとしなかった為に、組合は再び1962年1月1日からのストを構え、団体交渉を重ねた結果、相対的に低下したレシプロ機の乗務手当についても、105%アップの大幅改善を獲得したのです。

 【組合員の独り言】この後、地上職から「乗員だけじゃなく我々にも大幅賃上を!」と不満の声が上がり、日航労組が62年春闘では20%以上もの賃上げを勝ち取ったそうです。

      そう言えば、かっての「完全配車」や「長大路線手当」も客乗組合が頑張って獲得してきたものを運航乗員が後追いで頂戴したものだし、労働条件というのは、次々と他の職種、職場へも波及していくもんですねぇ。だけど逆もまた真なりで、客乗組合への分裂攻撃が激しくなるにつれて、ずいぶんと会社に取り返されたし、労働条件の切り下げを許してしまうと、それがたちまち全社的な切り下げに繋がってしまうので油断は禁物ですよ!

◆経営側の体制強化
 乗員組合の労働条件改善の取り組みが進む一方、世間では1960年は池田首相が「所得倍増論」を発表し、日本の経済規模が急速な拡大を始める年となりました。当時の日本航空の事業計画は「10年後の1970年には世界市場における日航の国際線シェアを6%(1958年の42倍)、国内線でも65%」というものでした。

この様な急激な事業規模拡大計画のもと、日本航空の経営はコスト削減、「合理化」を推し進めるため、1963年には別会社であった整備部門の日本航空整備株式会社(1952年7月1日設立)を合併して整備費の軽減を図るとともに、経営陣に朝田静夫運輸事務次官と植村甲午郎日経連副会長、伍堂輝雄日経連専務理事を加え、経営体制の強化を図りました。また、労務施策としては組合弱体化を目指し、分裂労務政策が激化していったのです。

◆初めてのストライキ決行(組合役員4名の解雇)
1964年には前年に乗員組合と締結した協定(外人ジェットクルーは「キャプテン4名、F/E4名のみ」の人数制限)を破って、会社は協定の内容は「ミスプリントである」と主張し、ジェット機への外国人乗員の訓練導入を開始しました。また当時、航法援助施設が不十分な南アジア-中東空域の運航のうち、カラチ-カイロ間から航空士(Navigator)の乗務を一方的に中止しました。しかも、これらの問題について会社は、団交拒否、組合無視の姿勢を強めてきました。さらに、「中央運航所インフォメーション」(会社教宣物)により組合活動を公然と非難し、役員選挙や組合運営に介入してきたのです。これに対し、乗員組合は1964年11月、12月に「外人訓練強行の中止・カイロ-カラチ間の航空士の乗務を継続して交渉することを求めて」結成以来初のストライキを行い、会社の協定無視等の強行姿勢の是正を求めました。しかし日本航空の経営はその姿勢を改めようとせず、「1965年4月25日の組合大会でのスト中止、執行部退陣要求などを求めるよう」乗員組合員に介入工作を行いました。

その内容は下記の会社スト対策メモを見てください

◇ 1965年4月22日・会社のスト対策会議内容:組合入手メモ

  1. スト中止、執行部退陣要求を前提として、職種ごとに組合員個々の色分けを行う。
  2. 大会席上で、執行部方針への反論、スト反対、退陣要求を徹底して行う。
  3. 23日の闘争委員会及びキャプテンミ-ティングの状況をつかみ、対大会作戦指導を行う。 説得工作は、常務→H機長、勤労部長→S機長、労務課長→FおよびO機長の線。
  4. 組合員の半数が識別不明あるいは浮動である故、介入はマンツ-マンで行う。
  5. 工作を容易にするようスケジュ-ル調整を行う。即ち、会社派を在京させ、執行部の新派をフライトさせる。等

介入工作に失敗した会社は、1965年4月27日、乗員組合役員4名(委員長、副委員長、書記長、教宣部長)を解雇するという強硬手段に出たのです。

また、この年の6月19日には、日航労組は日本航空民主労働組合(民労、後の全労を経てJALFIO)と客室乗務員組合(客乗組合)に分裂させられ、日本航空整備労働組合から日本航空新労働組合(新労)が分裂させられたのです。

【組合員の独り言】この解雇は組合の12連勝の裁判(地裁、高裁、最高裁の途中)を経て、全面勝利

        和解となりました。今の勤務裁判と似ていませんか?

◆熾烈を極めた分裂工作 その?@
会社の分裂工作はこれ以降激しさを増します。

・ 組合役員解雇と同時に、当時管理職であったO機長、N機長らの働きかけによって、1965年5月27日「機長会」(O会長)に「機長は組合から全員脱退する」旨の声明を出させ、組合費のチェックオフを中止しました

・ 機長の脱退にもかかわらず組合の活動力が低下しない状況を見て、会社は翌1966年7月25日には機長会と各職種の一部乗員により「運航乗員組合(第二組合)」を設立しました

会社が行った「乗員組合」脱退「運航乗員組合」加入への工作は、管理職や一部の乗員を使って、機内、乗員控え室、喫茶室などあらゆる場所で、乗務終了の乗員は待ち伏せし、教官や訓練生に対しては所長自ら、さらには座学の時間を中断して乗員組合からの脱退と運航乗員組合への加入を説得、強要したのです。また、自宅へは電話、電報で休日、夜間を問わず介入が行われたと聞いています。

この時の会社は、組合員一人一人に

  ・ 副操縦士に「乗員組合員に残っている人は機長にしない」

  ・ 航空士や機関士には「いずれ君の職場はなくなる。会社に逆らっていてバスに乗り遅れてもいいのか」

と言って勧誘したそうです。

この様に、個人の意志をねじ伏せるやり方は、職場を暗くし荒廃させ、また個別の分裂工作の前に、1年足らずのうちに約650名いた乗員組合員は、被解雇者4名を含めてもたったの8名にまで減少しました。

* 運航乗員組合は設立した年に一時金の「業績リンク協定」を締結し、労働条件の切り下げが早速始まったのです。

第2章

~運航乗員組合の民主化と機長全員管理職制度~

◆分裂後の労働条件の実態

運航乗員組合は設立以降

?@一時金の業績リンク協定を締結

?A1967年には賃金体系改悪会社案を承認、合理化協力確認書を締結

?B1968年には生産性が上がらなければ、賃金も上がらない「長期賃金協定」を締結

と次々と改悪提案を受け入れました。

 その結果、

・賃金面では

 ・乗員の基本賃金は業界トップから1968年には全日空に追い越され、現在に至る

 ・月例基本賃金も、ANA、JAS(現:JALJ)の水面下という現在の状況

・勤務面では

 ・アンカレッジ→ロンドン→パリの2回着陸乗務し、1泊または2泊でパリ→ロンドン→アンカレッジという過酷な勤

  務協定を締結

 ・1968年には東京→サンフランシスコの交代要員無しの乗務などが開始

◆御用組合から自分たちの組合へ

一部機長を中心に、経営の主張や「合理化」を積極的に受け入れていった運航乗員組合の執行部の運営は、機長を含めた一般組合員からの不信と反発を招きました。会社は1969年運航乗員組合とユニオンショップ制を含んだ労働協約を結び、8名となった乗員組合員を職場から追放しようとしましたが、執行部の提案は組合員の反発によりユニオンショップ条項については全員投票にかける事が大会で決定されました。経営と癒着した執行部方針が組合員により否定されたのです。

ユニオンショップとは:労働者は雇用されてから一定期間内に特定の労働組合に加入することを要し、組合員たる資格を失ったときは使用者から解雇される制度。また、その制度をとる事業所。

◆熾烈を極めた分裂工作 その?A
ユニオンショップ条項についての全員投票は2回の不成立後、3回目は否決され、執行部は若干の修正をほどこし4回目の投票に持ち込みました。そして、この4回目の投票において、1970年1月21日、205票にのぼるニセ用紙による賛成票が発覚(不正投票事件)し、運航乗員組合員の中に「この執行部・組合には任せておけない、組合を自分たちの手に取り戻そう」という気運が一気に高まりました。

【組合員の独り言】俗に言われる「不正投票事件」です。これに関わった方は既に定年されていますが、最後までアノ○○さんと呼ばれ、アノと言う修飾接頭語が取れる事はありませんでした。お友達もいなかったようです。

分裂により設立された第二組合である運航乗員組合が、会社と癒着した御用組合から組合員の要求を大切にする民主的な組合へ改革されていく中、1970年、運航乗員組合第5期執行部が誕生するための役員選挙で会社の意のままにならない機長たちが執行部を占める事が明らかになると、会社は新執行部が開始される前日の7月31日に機長全員管理職制度という世界にも類を見ない組合分裂策を強行、機長の組合費チェックオフを一方的に停止し、機長全員を運航乗員組合から脱退させたのです。

しかし、機長を組合から失っても、一部管理職機長らの脅し(仙台基礎訓練所における“ストライキに賛成するならば機長にしない”など)に屈することなく、賃金要求で初のスト権を確立した運航乗員組合と乗員組合は、合同闘争委員会の決定により、1972年10月20日に解雇撤回を含む要求で、統一ストライキ(いわゆる10.20闘争)を構えました。ストライキは回避されましたが、両組合が示した団結力はついに会社を動かしました。会社は73年1月26日、最高裁が会社の第一次及び第二次「過料(罰金)取消」の特別抗告を棄却するや、全ての係争中の事件(最高裁2件、高裁2件)を取り下げて、3000日に及ぶ解雇の撤回を表明したのです。

そして、歴史的な乗員組合と運航乗員組合の統一が成し遂げられました。たった8名の乗員組合に約650名の運航乗員組合が吸収合併され、もとの乗員組合に戻ることにより、新たな闘いを続けることとなったのです。

【組合員の独り言】このときの運航乗員組合の執行部は「どうやって職場からの信頼を得るか?」これが一番の課題だったといいます。また、乗員組合を脱退せざるを得なかった乗員の多くは、「本籍は乗員組合」と思っていたそうです。

<機長全員管理職制度には以下の会社のねらいがありました。>

?@労働組合の中心である機長の組合活動を禁止し、機長も含めた乗員の声を押さえ、組合の弱体化を図る。

?A乗員の中に、管理する者(機長)と管理される者(機長以外の乗員)の関係を作り、管理される者を押さえ
る。目的は物言えぬ職場を作ること。

 組合活動の自由を奪われた機長は、自分達の勤務、賃金等の労働条件、安全運航上の問題等に関して、自由
に発言し取り組む場を失いました。

勤務に関しても、管理職という理由で、機長以外の乗員に適用される乗務時間制限等の勤務協定は適用されませ
んでした。

例を挙げれば、

 ・東京→マニラ→香港→東京(3LDG、乗務時間12時間15分)乗員組合員は途中で乗員交替しました。

   しかし、機長だけは交代無しで乗務を行うといった事例が発生しました。

分裂労務政策により会社に都合の悪い労働組合を弱体化させ、「労使協調」の組合(御用組合)を育てる事で「合理化」を推し進めるやり方は、労働条件の悪化をもたらし、整備の切り下げ、訓練の簡素化、協定無視の外国人乗員導入等さまざまな問題を引き起こしました。

外国人乗員が300人もの規模に増加した1968年から70年にかけては、当時の主力機であったDC-8型機のエンジンのオーバーホールの間隔が8,000時間から14,000時間へ急激に伸ばされました。それ以前にも、1967年から68年の1年間に7回も小刻みに伸ばしています。1年間に7回も伸ばした理由は検証の後に伸ばしたのではなく、その時の整備能力(人員配置)に合わせて整備間隔を延長しなくてはならなかったのです。外国人乗員の導入によるあまりにも急激な事業規模の拡大に、他の部門がついていけず、「合理化」へ解決を求めた事をあらわしています。

第3章

~労務政策が生んだ大きな代償、航空事故~
◆連続事故
分裂労務政策により、乗員の職場が分けられ、乗員組合の会社に対するチェック機能が弱まる中で日本航空の連続事故が発生します。以下に示します。

★1965年12月 サンフランシスコでDC-8型機の離陸直後のエンジン爆発による緊急着陸(対岸のオークランド空港に着陸)

この爆発したエンジンは、オーバーホール直後のものでありオーバーホール時に鋲止めをしっかりしていなかったとされています。整備現場では時あたかも、一時金をめぐり業績リンクを受け入れるかどうか、仕事は二の次にして、会社が地上の職場で日航労組対第二組合(現JALFIO)の多数派工作のため画策していた時期でした。

★1968年11月 DC-8型機がサンフランシスコ空港に進入降下中にサンフランシスコ湾に着水

《この事故に関し、NTSB(米国運輸安全委員会)は次のような指摘を行っています。》

・当時、DC-8=62型機は、日本航空が導入して間もない新型機で、そこに備えられたフライト・ディレクタ-や

  自動操縦装置に対する乗員の訓練が不十分であった。

・機長(日本人)は気圧高度計の調子が悪かったため離陸時から気にかけていた。そして最終進入態勢に入った
  とき、副操縦士(外国人)に対し副操縦士席側の気圧高度計の読みなどについて英語で質問したが、意味が

  よく伝わらず、副操縦士から適切な答えが返ってこなかった。これは両者の言語の相違に基づくものであり、

  このような誤解のあらゆる可能性を除外するため適切な方式および訓練を行う事は、そのような環境で運航し

  ている会社の責務である。等

 当時、新型のフライト・ディレクターについては1時間30分ほどの座学しか行われていませんでした。

外国人乗員は、1952年の外国人乗員による「もく星号」事故の後、日本人乗員での運航をめざす中、乗員組合と締結していた「外人ジェットクルーの人数制限の協定」を無視して強行導入したものです。

★1972年6月14日 DC-8型機 ニューデリー事故

ニューデリー国際空港へILS進入中、滑走路手前の川の土手に激突しました。

この事故の背景には、事業の拡大を急ぐ日本航空の経営体質に大きな欠陥があると見られていました。それは、当時の運航乗員組合が、長期賃金協定に反対して組合設立以来初の争議権投票を行う中で、職場への介入が行われ、事故の一ヶ月前に「日航でもマル生運動」「第二組合まで造反」「管理職が現執行部について行くなら機長昇格させない」と新聞報道されていたからです。

★1972年9月24日 DC-8型機 ボンベイ誤着陸事故

ボンベイ、サンタクルズ空港の滑走路09に午前7時頃 朝靄の中、太陽に向かって計器進入の後、周回し有視界で着陸しようとした事故機は、その滑走路とほぼ同じ方向の滑走路を持つジュフ空港の1300メートルの滑走路に誤着陸しました。事故原因は乗員のミスとされました。しかし、事故機の機長は同空港には事故以前には計器飛行で4回しか着陸した経験がなく、有視界方式での着陸の経験はありませんでした。近接するジュフ空港の存在についても特別の注意はされておらず、ジュフ空港では外国航空会社を含め10件以上の誤着陸事故が発生していました。また事故後当該機長に日本航空の上司が「反論せずにミスを認めるように」圧力を加えたことが明らかになり強い非難を浴びました。

★1972年11月29日 DC-8型機 モスクワ事故

モスクワ・シェレメチボ空港から離陸し、300フィートまで上昇した後高度を失い、墜落火災が発生した。ソ連事故調査委員会は事故原因として、「予期せぬスポイラーの展開」あるいは「エンジン防氷装置を作動させていなかったことによるエンジン推力の低下」の2つを指摘しました。乗員組合ではこの事故のCVR(Cockpit Voice Recorder)の組合への開示を要求し会社はこれに応じました。

以上、1972年に起きた日本航空の3件の事故は「日航の連続事故」として会社の行き過ぎた「合理化」の結果であるとして社会的にも注目されました。

★1975年12月18日 B-747型機のアンカレッジ滑落事故発生

この事故は、機長が滑走路の凍結状況の下、離陸中断後、横風が強かったために再出発を検討している時、東京本社から「早く出発しなければ東京の空港運用制限に間に合わなくなる」と連絡が入りました。その連絡を受け機長が出発を決断し、凍結した誘導路をTAXI中に横風により誘導路わきの谷間に滑り落ち、大破した事故です。

《NTSB(米国運輸安全委員会)は以下の指摘を行っています。》

・機長は東京からのテレックスを受ける前に、21時までに出発しなければならず、もし出発できなければ、飛行を

 中止してアンカレッジに留まらなければならないことを承知していた。また、もし留まる事になれば日航現地支店

 に多大の支援業務を負担させる事になると考えた。

・機長はこうしたことを考慮して、出発を決意したのに相違ない。

・パイロットは、悪天候下において、自らの判断をあまくしたり、弱めたりしてスケジュ-ルを保持させるような圧力

 を許してはならないことを強調しなければならない。

★1977年9月27日 DC-8型機のクアラルンプール事故

この事故は、低視程下で最低安全高度以下に降下し、滑走路手前の丘に衝突した事故であり、

《マレーシア政府の発表した事故調査報告書で以下の点を指摘されました。》

・この事故は、当該機の機長が滑走路を視認しないまま、最低安全高度以下に降下し、引き続き機が滑走路

 手前の丘に衝突するまで降下を継続した事を原因として発生した。

・さらに、重要な事として、副操縦士が発行されている社内規程に違反した機長に対し、異議の申し立てを行わ

 なかった事があげられる。

 ・日本航空は、機長が危険な違反をしようとしているとき、副操縦士がこれを是正する権限を明確に与えるよう

 検討せよ。

当時、72年の連続事故後事故対策の一つとして、機長養成制度は改定されました。それは「忍の一字の2年間」と言われるほどの長い訓練期間でした。また教官機長への副操縦士の言動のためらいについての、もう一歩踏み込んだ実態指摘が必要でした。

◆物の言えない職場
機長が管理職という立場におかれ、操縦室内に管理する者と管理される者が存在する「自由に物の言えない」職場として、事故と直面した極めて危険な状況下ですら、管理されている乗員の心の中に重大な影響を与えていたのです。会社はクアラルンプール事故後の対策として、航空機事故が多発する、離陸後の3分間および着陸前の8分間、つまり「危険な11分間」から名称をとったCritical Eleven Minutes(CEM)委員会を作り、安全阻害要因の調査・解析を行いました。

《CEM委員会の指摘》

・他のクル-が何かおかしいと感じたときは、躊躇せず、機長にアドバイスできる様な雰囲気を作る。

・人間の心理的なものが強く作用している。(他からの批判・疲労・労働条件等13項目)

・行き過ぎた管理体制は乗員が判断を下す時に結果を気にする余り、不必要なタメライの気持ちを起こさせ、

場合によっては判断を狂わせる事もある。

・モラ-ルの問題は労務問題に関わるものが多い。クル-モラ-ルはフライトセ-フティ-に大きく影響する。

・コックピット(操縦室)の中に会社対組合の確執が持ち込まれてはならない。

会社自らが設置したCEM委員会は機長全員管理職制度に起因する問題点を指摘しました。しかし、今も日本航空はこれらの問題点を根本的に解決しようとはしていません。1972年の連続事故後、会社の取った安全運航に関わる施策は、期間を長くして、訓練基準を厳しくし、人間性教育、人格形成教育強化に名を借りた乗員の管理強化を行うだけのものでした。また20項目以上の関門を設けた、世界的にも異常に長い機長養成制度を設定しました。一方でクアラルンプール事故の1ヶ月前の1977年8月15日には、運航規程の中に、「経済性」の文言を持ち込むなど、会社の営利優先、安全軽視の姿勢は改まる事はなかったのです。

◆日本航空の労務姿勢がもたらした事故

★1982年2月9日DC-8型機 羽田沖事故

  事故機は福岡から飛来し羽田空港へ進入中、滑走路手前360メートル付近で機首を下げアプローチライトに接触、海上に墜落しました。事故原因は機長の精神的変調による逆噴射と機首押し下げ等の異常操作とされました。会社は事前に当該機長の精神的変調を認識して、服薬して乗務させていた事実を隠していました。また当該機長が精神的変調を起こした背景には労働組合への介入のために、会社から当該機長に精神的圧力がかけられていた、とも指摘されました。

この事故の安全対策として、日本航空はカウンセラーデスクを配置しましたが、これも一時的な形だけの安全対策となりました。

この事故を契機に、日航の機長全員管理職制度、機長養成制度が厳しく批判されることとなりました。

事故の機長は、機長養成に入る前は、「同期の中でも一番冗談が多く、明朗で自信にあふれた、日航の範たる副操縦士であった。」と同期からも言われていました。ところが、機長養成が進む中で、会社の評判を気にして「麻雀もやめ」「ブランクデイもいつも家で待機し」「口は災いの元だ」と言って同期との会話にも乗ってこないようになったのです。さらに、当該機長は機長養成訓練中、会社の上司にストライキのことについて連絡しなければならないと、1日中電話の回りを行き来して悩んでいたという事実が組合の調査で明らかになりました。日本航空の、乗員組合敵視の政策が機長養成制課程中の弱い立場の乗員に影響を及ぼしていた悲しい出来事です。

《羽田沖事故(事故前日の異常飛行)に関して、国会での指摘》

 ・機長に異常があっても、同乗の乗員が報告しにくいのではないか。

 ・機長が副操縦士の経験報告書(Experience Record)を書かされているのでは報告できない。

 ・機長を従業員から別の枠をはめる。そういうことをやっているのは日航のみ。特異な事をやっている日航が

  度々事故を起こす。原因と考えざるをえない。(操縦室)3人の空気が良好になるようにすべき。(機長管理

  職制度が)一つの要因になっており、公平に考えてほしい。

第4章

~機長組合設立への道のり~

◆機長養成訓練に持ち込まれた労務手法
1977年「機長養成アンケート」で、機長養成課程の会社面接で聞かれた事に、以下のようなものがあります。

○ 98%でスト権確立、君も賛成したろう、それなのに何故管理職のキャプテンになりたいの?

○ キャプテンは管理職だから、これからは全て会社側の味方をしてくれなくては困るが?

異常に長い機長養成制度の中で、たくさんの関門を設け、会社の考えを押し付け、管理強化するやり方は、自由に物が言えない状況を作り出します。また機長管理職制度は操縦室の中に管理する者と管理される者を作り出し、物の言えない職場にします。当時、自分たちの組合を持たない機長は、会社の労務政策に対して孤立していました。機長が組合活動をしていれば、会社の方針にただ従うのでなく、また、個人的に攻撃される事もなく、乗員の立場で、組織的に意見が言える本当の機長のあり方になり、それがまた安全運航を支える基本となるのです。

◆機長会(親睦団体)から機長組合へ
【機長会の民主化が進む:懲戒解雇を受けた元乗員組合役員が、機長会会長に】

1965年乗員組合執行部の4名が解雇され、その後の脱退工作で乗員組合が8名となった状況の中で、残った4名の乗員組合員に対しては機長昇格、賃金などで様々の差別が行われました。この様な差別を民航労連(全日空労組・東亜航空労組等の地上職組合を中心とした団体。現在の航空連に引き継がれています)客乗組合などの支援(カンパによる解雇された4名の生活援助、ATR取得の費用援助、解雇撤回裁判・機長昇格差別是正の労働委員会活動)を受けながら、乗員組合の取り組みで、4名の乗員組合員は会社の攻撃に負けずに機長へと昇格して行きました。そして機長へと昇格した乗員組合員であった8名が(解雇された4名を含む)が、「機長会を変えて機長も発言しなくては」と1975年、76年、77年と機長会の理事に次々に当選していきました。さらに1978年には、一時は会社から懲戒解雇され、その後、裁判での全面勝利を経て解雇撤回、復職後に機長に昇格した、M氏(解雇時、乗員組合教宣部長が理事に当選したのです。

【組合員の独り言】8名になった乗員組合は、自分の意志に反して運航乗員組合(第二組合)に移ら
        ざるを得なかった乗員からも熱い支持を受けていました。乗員組合(8名)の出す乗員新聞
        は、乗員の間では自分たちの意見を代弁してくれていると、歓迎されていました。その当時、乗
       員は会社に行っても、上司と顔を合わさないようにメイルボックスの陰に隠れて匍匐前進しなが
        ら、こっそりと乗員組合へカンパして助けていたという乗員もいたそうです。

日本航空の経営が羽田沖事故に対し社内外の批判を受け、乗員組合が取り組む中、機長会が1982年6月に4回にわたって「機長管理職制度と安全運航について」と題して討論会を行いました。これは事実上、機長全員管理職制度の再検討の開始だったといえます。(7月から行われた、初めての機長会会長選挙の結果、M氏が会長に選出されました。)始めて乗員組合への「機長・管理職、夏闘1000円カンパ」は6月から山場までに200名を突破し、機長統一への大きな進展が見られました。

機長会が積極的に発言を始めた1982年夏闘で、乗員組合は機長養成制度については、訓練期間の短縮、フェーズ(Phase)分けの改善、英語検定・論文・面接の実質廃止等の回答を獲得したのです。

◆日本航空経営の管理強化、営利優先、安全軽視の姿勢は変わらず
しかし、この羽田沖事故後、会社が運輸大臣宛てに提出した「安全運航確保のための業務改善について」は、乗員組合との話し合いが一切なく、会社の考えだけをまとめたものでした。また運輸省の指示「労使間で話し合うべきだ」(国会発言)も無視するものでした。その内容は、乗員の健康管理の強化とカウンセリング体制、乗員相互の意思疎通をよくするためのグループリーダー教育や宿泊地も含むミーティングの充実などで、過去の事故の時に出されたものと変わりがなく、相変わらず管理強化の内容でした。

過大な事業規模拡大、「合理化」のための労務政策が事故を引き起こしてきたにもかかわらず、日本航空の経営は、1984年には「2万人体制」「管理可能費ゼロシーリング」を打ち出し、さらに「経営改善方策」と称する「合理化」案を発表し、さらなる「合理化」を推し進めてきました。

そして、1984年、細田運輸大臣が日航の労働条件の抑制・介入発言を行い、10月8日には総務庁が、臨調・行革路線のもと、日航の「合理化・能率化」の勧告を発表、1985年1月19日には運輸省が総務庁に「航空行政監察の結果に対する改善措置」を回答し当時の高木・日航社長の留任条件として「合理化」を提示し、その後、後藤田総務庁長官が「日航パイロットの労務管理に問題多し」「会社は妥協せず、けじめをつけよ」と発言したのです。

◆御巣鷹山123便事故を契機に高まる労務政策への批判:1986年ついに機長組合設立
こういった、政官財の「合理化」攻撃が強まる一方、羽田沖事故の後、機長全員管理職制度に対する機長も含めた全乗員の問題意識が高まっていく中、1985年8月12日、520名の犠牲者を出した、B747型機の御巣鷹山墜落事故が発生しました。

高木社長が辞任、12月18日に伊藤副会長、山地社長、利光副社長が就任し、1986年に入って、新役員が

・「過去の間違い」を認め、

・「分裂労務政策をとらない」事を約束

・「絶対安全の確立」

・「現場第一主義」

・「労使関係の安定」

・「公正明朗な人事」を労務方針として掲げる中

・ 1986年春闘で会社は「機長の組合活動を認める」回答を行ったのです。

一方、羽田沖事故後も改善されない会社の体質、特に安全問題や労務政策に対する批判は、御巣鷹山事故を契機に機長のなかに大きく高まっていきました。御巣鷹山事故直後の機長会連続ミーティングの討論で、機長会はもっと強い交渉団体へ脱皮すべきであり、そうすることによって運航の最終責任者たる機長としての社会的責任を果たし、安全運航への信頼を回復しようという意見が多数を占めました。こういった状況を背景に、1985年10月の第16期機長会定期総会において採択された年度方針をうけて、理事会が「機長組合設立」を提案するに至りました。1986年3月および4月に開催された機長会連続ミーティングにおいても「機長組合設立」の声は回を重ねるごとに強いものとなっていきました。

機長会での機長の論議の結実と伊藤副会長(当時)を中心とした新経営の決断により、1986年6月12日、日本航空機長組合が設立されたのです。その後1987年2月10日には管理職である先任航空機関士の職場においても先任航空機関士組合が設立されました。

新経営陣のもと、過去20年以上にわたる分裂労務政策こそ日航連続事故の背景であるという反省に立って、数々の施策が打ち出され、改善に向け歩みだしました。しかし、1987年3月14日、伊藤会長が突然の辞任を発表し、その後、日本航空の経営は再び、以前の営利優先、安全軽視の分裂労務政策へ逆戻りしたのです。

93年以降の

  ・協定の破棄

  ・ 勤務基準改悪

  ・賃金の切り下げ

  ・整備問題

  ・などなど、直面する課題は多くあります

乗員組合の歩み、少し理解していただけました?

なぜ3つも組合があるのか・・・最近の合同執行委員会、三乗組の取り組みが拡大しています。 

組合とは・・・・考えてみませんか?・・・

最後に、解雇・分裂を撤回し乗員組合に統一を勝ち取った時の「統一宣言」を紹介します。

統 一 宣 言(要旨)昭和48年11月22日

安全速報(第48期)安全速報(第48期)

安全速報(第49期) JA8180F 隠蔽解明出来ず2ヶ月以上経過(No49-295) PDF SASCO、組織ぐるみで不正な整備を隠蔽か??(No49-269) PDF JAL経営も現在の事故調査体制に問題意識を持っていた!(No49-221) PDF 全日空ではイラク状勢への会社対応が明らかになっている、日本航空も対応を明らかにすべき!(No49-193) PDF 「JAL」って、Just Always Luckyの略だったっけ??(No49-168) PDF 大丈夫か日本航空の整備 こんどは新塗装がはがれた??(No49-165) PDF JL356/21 OCT 乗員を早く復帰させなさい!(No49-163) PDF 業務上過失傷害罪と航空危険罪(No49-150) PDF 整備ミスに部品盗難、こんなところで飛行機を整備するのはやめてくれ!-02.11.19山場前団交(安全)-(No49-95) PDF JL345 WE DECLARE EMERGENCY!(HND-KIX DC10 JA8549ケ-ス)(No49-45) PDF 8月26日 社内事故調査報告書に関する説明(No49-13) PDF 2002年6月トラブル集計(No49-12) PDF 「アスリ-トS」新設でも、カテゴリ-の変更だから検証は必要ない??-車椅子カテゴリ-の見直しについて-8.15事務折衝報告-(No49-003) PDF

NASAの疲労研究で判明NASAの疲労研究で判明

NASAが操縦席でのレストの研究をしていることは、これまでの速報でもお知らせしましたが、研究内容についてワシントン・ポスト紙の記事を入手しましたので、抄訳をお届けします。記事の原文には、記載がありませんが、ICAO Journalの論文によれば、疲労調査が行われたフライトは、ノースウエスト航空・ウナイテッド航空の、HNL/NRT、HNL/OSAの昼間のフライトとOSA/HNL、の夜間フライトで、最短レグで7時間、最長レグで9時間半のフライトです。休憩のないフライトでは乗務時間9時間程度であっても、着陸前の90分間に、多数のマイクロ・スリープが発生することが検証されました。マイクロ・スリープは降下・着陸のフェーズでも発生しています。(マイクロ・スリープ:数秒間以上意識を失う現象)このことは、日本航空が交替乗員なし、休憩なしで、11時間の乗務を強行しているサンフランシスコ線等の運航で「安全性が損なわれている」という、組合員多数の声を裏付ける内容になっています。この研究結果では、機上での仮眠が「疲労の救済として有効」「疲労によるパフォーマンスの低下を少なくする」としています。FAAはシングル編成でも操縦席での仮眠をとることの制度化を検討しているとしていますが、この点は本末転倒であり、認められるものではありません。また、この調査は3名編成機のみで行われたこと。FAR(連邦航空法)では2名編成機の乗務時間は8時間に制限されていることは忘れてはなりません。明らかなことは、9時間程度を越える長時間乗務では、マイクロ・スリープ発生などで示されるように 覚醒度(alertness・注意力)の低下、疲労による能力の低下が起こり安全性が低下するということです。そして、すぐにも可能な対策は、交替乗員を乗せるということです。 「見張りの義務」などの航空法上の義務に違反し、乗員の良心を捨て、交替で違法な休憩を取ることが解決ではありません。これまでの会社の主張は、「過大な疲労のみが、運航の安全性に影響する。11時間シングル編成乗務は開始前に十分に検証したから大丈夫。(巌本部長)」「眠くなったら、トイレに行くとか、離席するとか離席して屈伸運動をすればよい。(中野副本部長)」など、あまりに非科学的なものとなっています。航空会社の運航の最高責任者として極めて情けなく、残念なことです。 会社の安全軽視、無責任、現場無視の姿勢を、組合に終結して皆野力で変えていきましょう。 ワシントン・ポスト紙記事 1994年12月26日(ワシントン・ポストKathy Sawyer執筆)抄訳航空事故発生のメカニズムを解く方程式に「疲労」の要素を導入 1993年8月18日、キューバ、グアンタナモ湾に着陸直前のDC-8貨物機は、旋回中、コントロールを失い、墜落炎上した。3人の乗員は、重傷を負った。この事故は、一般市民の目には殆どとまらなかったが、昨年春、NTSBが事故の推定原因は「乗員の疲労」と結論したことは、歴史的な展開であった。セーフティーレポートシステムに非公式に報告されているインシデントの内、21パーセントのじれは、乗員の疲労がひとつの原因となっている。ボーイング社が政府のデータを分析したところ、1959年から今日までの全損事故の内75パーセントが乗員のエラー(疲労が誘因となったかもしれない)によるものだった。それにもかかわらず、NTSBが公式に「疲労」が事故原因だと結論を下したのは、この事故が初めてのケースである。NASAのAmes研究所で「疲労」を研究しているMark R. Rosekindは、「NTSBがグアンタナモ湾の事故原因を疲労と断定したことは、その結論を裏付けるだけの手法と科学的根拠をNTSBが確立したということだ。」と述べている。「疲労を検証する」 Rosekindによれば、ある時点での「疲労」の存在を検証し、その影響を測定し、その疲労に対する対策の有効性を評価することは、実験室以外では、驚く程に困難だ(あまりに単純で当たり前な、仮眠のような対策でさえ、評価は困難だ)。1980年依以来、NASAヒューマンファクター研究部で、Rosekindらは、現場で「疲労」がもたらす結末、つまり、生命を脅かすような事故を引き起こす潜在的な危険性については、ほとんど無視されて来た。『我々は、「疲労」を「大した問題ではない」と不問に付している。我々は、極めて無知である。』とRosekindは言う。研究結果によれば、睡眠不足がある限界点まで行くと、たとえその時点の状況が、生死をわかつような危険な場合であっったとしても、人間は脳が出す睡眠指令に意志の力で打ち勝つことが出来なくなる。自動車の運転中に、居眠りをしてしまった人のことを誰もが知っている。しかし、人間は自己の疲労度を極端に過小に判断してしまう。」とRosekindは言う。彼らは最近、FAAとの共同研究で、「疲労」が長距離洋上飛行のパイロットに及ぼす重大な影響を明らかにした。パイロットと同乗 1990年、研究者達は、太平洋線の定期便に、21名のB747パイロットと同乗し、調査を行った。パイロットは、休憩を取るグループと取らないグループに、無作為に分けられた。休憩を取るグループのパイロットは、巡航中に、操縦席に座ったままで、最長40分までの仮眠(in-flight nap)を取ることが許された。(安全のため、休憩時間は、2名のパイロットで重ならず、降下・着陸という厳しいフェーズに入る少なくとも1時間前には終了するように設定された。各フライトでは、2名の研究者が運航乗務員を観察した。12日間の離基地日数の間に8回の乗務を行う勤務のパターンの内、中間の4回の乗務について調査が行われた。各フライトは、乗務時間約9時間で、乗務前には24時間の休憩(宿泊)が与えられた。調査対象の4フライトの内、2フライトが東むき飛行、2つが西向き飛行で、若干の夜間飛行も含まれてういた。測定用電極がパイロットの頭皮と顔面に取り付けられ、脳波と眼球運動が連続して記録された。休憩時間は40分に制限されたが、この点については「仮眠の時間が短ければ、深い睡眠サイクルに入る可能性が減る。」とRosekindは言う。この研究では、2つの項目の測定が行われたが、ひとつは、眠りこまない(意識を失わない)ことを含めた覚醒度(alertness)である。休憩無しのグループでは数秒以上、意識を失うマイクロ・スリープが、合計120回記録され、その内22回は降下・着陸段階のものだった。(5秒以上の事象を記録)一方、休憩を取るグループではマイクロ・スリープ発生は34回で、降下・着陸時には発生しなかった。睡眠要求 研究者達が驚いたのは、休憩無しグループの4人のベテランパイロットが、睡眠要求が大きいために、5回にわたって、眠りこんでしまったことがある・それも、電極を付けて、2名の研究者が肩越しにのぞき込んでいる状態で!Rosekindによれば、「ひとりは14分も眠っていた!」とのことだ。「このことは、「訓練を積んでも、プロフェッショナリズムがあっても、また、いかに最良の適性(“right stuff”)をもってしても、極度の眠気(sleepiness)は自己の意志で抑制不能な睡眠を引き起こす」ということを裏付けるものだ。」と彼らは書いている。反応時間を測定 研究チームは、能力(パフォーマンス)の測定も行った。一定時間毎に、パイロットは電卓ほどの大きさの測定器(ボタンと赤色のLED表示で000と数字が並んでいる)を渡されて。LED表示の数字が突然ゼロから増えはじめるので(時間をミリセカンドで表示)、それに気付いたらパイロットはボタンを押し、その時点でカウントが止まるので、反応時間がわかるような仕掛けになっている。この測定は、各回、10分間続けられた。データが分析された結果、休憩なしグループでは、反応時間に確実な増加が見られた。休憩を取るグループについては、各フライト内を取っても、4回の乗務を通してみても、反応時間の有意の増加はなかった。特に夜間飛行に関しては、休憩なしのグループは、休憩グループより反応が相当に遅かった。機上仮眠を取っても取らなくても、パイロットが自己の覚醒度の主管評価(つまり自分がどれくらい疲労していると感じるかの印象)は、変化がなかった。しかし、(測定に基づく)客観的な評価では、休憩ありのグループが明らかに、能力(パフォーマンス)の点でも、覚醒度の点でも優れていた。操縦席での仮眠が「有効ではあるが長続きしない救済」であることは確かだが、パイロットの勤務パターン全体についての「深刻な睡眠負債」が仮眠によって解決される訳ではないことを研究者達は強調している。「深刻な睡眠負債を解消するには、一晩あるいは数日間の夜間睡眠が必要だ。」と。FAAのスポークスマンによれば、FAAは、NASAの研究に基づいて、操縦室内で計画的な休憩を取ることの解禁を提案すべく、調査中だという。以上乗員組合抄訳次ページに、説明記事訳(同ワシントン・ポスト)