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日本航空機長組合 – Japan Airlines Captain Association日本航空機長組合 – Japan Airlines Captain Association

   
憲法9条は、「もう二度と戦争はしない」という気持ちから、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否定」をうたっています。
世界に例を見ない9条によって、この60余年、日本は「戦争しない国」を実現してきました。ところが。この9条を変え、日本を「戦争のできる国」にしようとする動きが強まっています。安倍首相は任期中にも憲法を変えると明言しています。
戦争で家族を失ったり、国のために人を殺したりする時代はもう二度と来てほしくありません。私たちの子供、さらにその子供の世代になっても。
そんな願いを込めて、9条改悪に断固反対し平和憲法を守り続けましょう。

  <憲法労組連>憲法9条を守りたい―。その大きな目的のために、産業分野の違いを乗り越えて手を取り合って結成されたのが、憲法労組連(憲法改悪反対労組連絡会)です。連合や全労連などに属していない中立系の産業別組合12団体で構成しています。2004年7月の発足以来、シンポジウムやシリーズ学習会を開催、市民団体なども連体し平和と憲法を守る大きなうねりをつくりたいと取り組んでいます。
 
  参加団体:   映演共闘、航空連、私大教連、出版労連、新聞労連、全建総連、
全港湾、全倉運、全損保、全大教、全農協労連、電算労
 
平和憲法の改悪に反対する要請署名

わたしたちは、平和憲法の改悪に反対します。

この署名は、すべての政党・会派の国会・地方議員、首長などへの要請に活用します。
(個人情報保護の立場から、ご署名いただいた住所・氏名を他の目的に使用することはありません)
 ⇒ WEBフォームにて署名
 ⇒FAXにて署名・PDFファイルのダウンロード (FAX番号:03-5756-0226)

憲法改悪反対労組連絡会(憲法労組連):新聞労連気付
〒113-0033 東京都文京区本郷2-17-17(共門本郷ビル6階)

実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった、日航労組元委員長 小倉寛太郎氏の海外辺地たらい回し人事の経緯を、吉原公一郎著「墜落」(大和書房)より抜粋させていただき、ご紹介します。 小倉寛太郎氏 日本航空の労働組合、いわゆる第一組合と呼ばれる労組は、1951年11月に結成された日本航空労働組合(日航労組)と、日航労組から1954年9月に分離・独立した日本航空乗員組合、日本航空整備株式会社の従業員で組織された日本航空整備労働組合(日整労組)であった。(この日整労組は63年10月の日航・日整の合併後、会社の行った分裂工作によって少数組合となり、同じく分裂させられた日航労組と66年8月に統一することになる) 日航内で自立した労働組合運動がはじめて成立するのは、1961年に小倉執行部(日航労組)が誕生してからである。では、それ以前の日航労組と会社側との関係はどうであったのか。 ?@ 組合の三役人事は、前執行部があらかじめ会社側と相談して決め、たとえば1960年度の吉高執行委員長は61年度の三役人事を小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長とすることを新町人事部長の諒解をとりつけた上で小倉氏に立候補を説得している。このように、執行部人事にあらかじめ会社が介入するやり方は、組合結成以来つづいていた。 ?A 組合三役の言動は会社の労務担当者がこれを演出するという関係にあり、たとえば分裂前の日整労組の書記長であった中村信治氏は、1965年7月、前年度執行部と会社との最後の労使協議の後、吉高労務課長らに酒食に誘われ、「私の言うことをよく聞いて今後は活動してほしい。そうしてくれれば君の前途は悪くしない」と念を押され、その後も分裂した「民労」と同じ内容で妥結することを求められている。 ?B 日航労組の三役ポストは出世コースであり、59年度執行委員の萩原雄二郎氏は62年には人事課長となり、その後現在では常務取締役(労務担当)となっている。60年度執行委員長の吉高氏は62年には労務課長に就任し、その後取締役になっているのである。  このように、会社との談合によって決められる三役が、会社側の筋書きに従って行動することにより、その見返りとして出世コースに乗るというパターンが「正常な労使関係」とされていたのであるが、それは、日航の路線拡張、事業所の増大にともなって増大していくなかで、慢性的残業をともなう長時間労働や、人員の不足を埋めるため中途採用者と定期採用者・正社員との賃金の格差、臨時従業員の身分、また正社員でも零細企業を含めた「全産業平均」にすぎない賃金水準の低さ-これらの是正を求める一般組合員の要求が充満してくるという矛盾が発生する。従って、従来のように執行部を使って組合員の要求をおさえこむという方式は、必然的に破綻し、1960年の年末闘争で吉高委員長以下の執行部が、年末手当に組合要求を独断で切り下げて妥結したことに対して、オペレーションセンター支部が委員長不信任決議をし、つづく全国大会でも執行部不信任案可決寸前になる。  このようななかで、61年度の執行委員長のポストを進んで引き受ける者がなく、吉高委員長は勝手に小倉寛太郎氏の立候補届を提出し、既成事実が作られた上で小倉氏は委員長を引き受けることになるのである。  「昭和36年度小倉執行部において日航労組ははじめて『会社のヒモがつかない』執行委員長を持つことができたわけである(吉高前委員長が、『小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長』の線で人事部長の諒解をとりつけて来た事実は、小倉にとっては委員長職を引き受ける理由ではなく、むしろ吉高氏からの立候補受諾の説得を当初拒否した理由であった。事実、小倉は前述のとおり右「了解事項」に拘束されることなく、規約上の三役指名権を行使し、亀川氏に代えて境栄八郎氏を副委員長に指名したのであった)。  そして小倉執行部(昭和36年度・37年度)、および境執行部(昭和38年度・39年度・40年度)のもとにおいて、十分な職場討議を経て組合員の要求をまとめ、組合員の立場に立って会社に対し率直に要求を提示し、正当な団体行動権の行使を通じ、あるいはこれを背景として会社と堂々と交渉するという、あたりまえの労働組合の姿が確立されたのである」(1969年3月31日「東京都労働委員会に対する『最終陳述書』」)  小倉執行部が成立した年、日航労組は時間短縮、労働協約の改訂、年末一時金のアップ、客乗ジェット手当改訂の要求を掲げて初のスト権を確立し、翌年ストに突入している。  この闘争を通じて1956年10月以来の労働協約の改訂が合意され、新協約には賃金や労働時間などの労働条件の引き上げが当然のことながらもりこまれ、またユニオンショップ制の強化、規約所定の組合各機関の会合の時間内保障等の組合の権利を伸長させたのである。そして、?@賃金水準は62年から65年までの毎春闘でのベースアップのつみかさねによって、「全産業平均」から「主要企業平均」の水準に達した。?A労働時間の短縮(週43時間を38時間に)、長期臨時従業員全員の正社員化、年休改善、定年延長、生休の一期間二日有給化、?B年齢調整(晩学調整)制度と中途採用者の経験調整制度等、今日の日航の労働条件の水準は、そのほとんどが小倉執行部時代の日航労組の活動によって獲得したものであった。  ちょうど、この時期は日航にとって収益の低下から無配転落、さらに翌年は経営赤字を記録するときにもあたっている。  日航労組の『最終陳述書』は、次のように書いている。  会社は、日航労組が小倉・境執行部をいただくことによって御用組合から脱皮し、一般組合員の要求を民主的手続を通じてくみあげ、その要求実現のためにたたかうまともな組合に成長したことに危機感を抱き、日航労組を昔日の御用組合の姿に戻すための数年間(昭和37年から40年)にわたり、あらゆる手段を用いて介入した。介入のパターンは一方において組合執行部を攻撃(?@組合役員・活動家に対する人事異動により一般組合員と接触を断つ、?A正当な組合活動への大量処分、?Bこれらを推進するうえで障害となる労働協約を廃棄する、?C管理職を使って、活動家の役員立候補を阻止する、など)するとともに、反執行部派を育成強化し、これに執行権を握らせるよう画策する(?@反執行部派に対する資金援助、?A職制機構を通じての役選票よみ等選挙対策の推進、?B職制に反執行部的意識を注入するための監督者研修に名を借りた思想教育、?C反執行部派に「今の執行部は問題解決の機能を失った」とアピールさせるためのお膳立てとして、団交形骸化、膠着の事態をたえず生じさせる)というものである。そして、足かけ4年にもわたるこの種の介入をやりつくしても、なお御用幹部が多数組合員の支持をとりつける可能性のないことを会社が知ったとき、組合を分裂させるという方向転換が指令されたのであった。  小倉寛太郎氏が二期つとめた委員長の座を降りるのは1963年6月であるが、日本航空の労務管理がどのようなものであるかを端的に示しているのが、小倉元委員長に対する海外たらい回し人事であった。  すなわち、小倉氏が委員長の座を降りて本社予算室に復帰して一年にも充たない翌年早々カラチ支店への転勤を命じられ、66年3月にはテヘランへ、70年1月にはナイロビへと、テレックスがたたきだす一片の命令によってつぎつぎに海外をたらい回しされるのである。  小倉氏に対しては、小倉執行部によって日航労組が初のストライキを実施した1962年当時から、すでに会社首脳部のあいだでは「くびにしろ」という声があり、そのために入社時にさかのぼって、小倉氏の勤怠状況が調査されている。本人が無遅刻・無欠勤であったため目的を果たせず、63年秋には新町予算室長が小倉氏に「おまえみたいなアカがこの予算室にいるのは非常に残念だ。とっとと出ていけ」といった事実さえあった。そして、その翌年早々にカラチ転勤となるのだが、彼には海外支店の総務主任の職務内容をなす経理・財務・調達・人事などの仕事についての経験はなく、しかも当時、組合の会計監査の地位にあり、母親と未成年の弟を同居して扶養中という生活環境の上からも転勤に不向きな条件にあった。従って、このような異動は常識では考えられないことであった。  日航の「海外在勤員の在勤期間基準」によれば、生活条件の劣悪な「特別地域」における在勤期間は二年とされており、赴任に先だって小倉氏は当時の松尾社長に、「会社の規定では任期二年ということになっているので、二年たったら必ず帰してもらえるのでしょうね」と念をおしている 。これに対して松尾社長は、「二年先のことはわしにまかせろ。悪いようにはせん、必ず責任を持つ」と答えている。  だが二年後には、支店開設のため総務主任としてテヘランに赴任させよというテレックスに接し、このことで、通常ならばこの人事について事前に本社から相談にあずかっているはずの支店長も、「あなたの問題に関しては私などの及ぶところではない、私にいくらいっても無駄である」と、小倉氏にいったという。  テヘランに赴任直後、小倉氏は母親の訃報で休暇をとって帰国したが、このとき松尾社長は彼の顔を見るなり「すまん、すまん」といい、「テヘラン支店の開設が軌道に乗ったら帰してやるから、それまで待て」となだめているが、結局この約束も果たされず69年いっぱいテヘラン勤務をつづけさせられたあげく、さらにナイロビへ転勤させられるのである。  小倉氏がテヘラン支店に勤務していた1968年秋頃、本社人事部長安辺敏典氏が出張した際、小倉氏は「いつ帰してくれるのか」といったところ、安辺人事部長は「あなたが帰っても組合活動をやらない、組合と縁を切るという約束をすれば、それは簡単なんだけれども…」と、組合脱退と帰国とを取り引きする話を持ちかけている。  このとき小倉氏は、「だいたい会社が組合を分裂させてから、第一組合が非常に困難な状況になっているというのは、外地にいる私も知っております。私がかつて委員長をやっておりましたときに私を信用してくれた人たちが多く第一組合に残って、困難に負けずに頑張っている。そこで男として「私はもう組合をやめましたよ」というようなことがいえると思いますか、あなただったらどうします」と反問して、人事部長の誘いをことわっている。  ナイロビへの転勤命令は、営業所長と異なり、部下を持たない販売駐在員で、現地人ならともかく、日本人としては前例のない地位におかれたのである。

深田祐介氏も参戦深田祐介氏も参戦

「沈まぬ太陽」への攻撃・・・黒幕は・・・?ある機長の投書より深田祐介氏はかつて日本航空に在籍し、広報部次長を務められました。その深田氏が「週刊現代」誌上で『沈まぬ太陽』への批判を展開されていますが、それに対しある機長から次のような投書が届きました。 週刊現代 6月10日に “深田祐介が初めて書いた「山崎豊子『沈まぬ太陽』徹底批判!」” という記事が掲載されました。記事の内容は、見出しの通り「沈まぬ太陽への徹底批判」です。曰く 「企業小説は、テーマとした企業の人間が読むに耐えると評価して初めて本物である。しかし、『沈まぬ太陽』は航空産業界に在籍した人間のほとんどが現実性をきわめて欠く作品と感じるのだから、失敗作と断じざるを得ない」 のだそうです。 しかし、週刊朝日で小倉氏自身がこう語っています。「組合分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間たちが実際に体験させられた事実です。」そして、組合の歴史がそれを裏付けています。また、社内には 「事実を知っているから、『沈まぬ太陽』は読まなくてよい」 という人もいるくらいです。現実性をきわめて欠くと感じているのは、日本航空の経営に携わり、組合を分裂させる、いわゆる分裂労務政策を遂行した人と、その片棒を担いだ人と言う方が正確だと思うのですが・・・ 更に深田氏は、山崎氏の 「取材や資料の解釈において著しい偏向があり・・・」 と語っています。「著しい偏向」とは一体どういう意味なのでしょう。まさか、直木賞作家の深田氏が組合活動をする人間はアカであるというようなおかしな偏見を持っているとは思えませんが・・・また深田氏は 「特にモデルの選択において、決定的な誤りを犯した・・・」とし、「企業小説ならば、企業のなか、業界のなかで、志をもって働いている人物をモデルの対象にしなければならない」と語っています。「志」というのは司馬遼太郎さんの 「人間の志を描くのが小説である」 という言葉を引用しての発言なのですが、組合員の労働条件向上のために働いた人に「志」はないとでもおっしゃるのでしょうか。まさか、まさか、直木賞作家の深田氏が憲法で保障された組合活動を「偏向している」とお考えになっているとは思えませんが・・・山崎氏は日本航空を題材とした企業小説を書きたかったのではなく、小倉氏を主人公とした小説を書きたかったのでしょう。たまたま小倉氏が所属していた会社が日本航空だったというだけの話で、取材の過程で 「小倉氏の話しか聞かなかった」 というのも、当然といえば当然だと思えるのですが・・・ 一部の人には失敗作と評されましたが、『沈まぬ太陽』はベストセラーとなりました。これがすべてを物語っているのではないでしょうか。おもしろい、いい小説だからベストセラーになったのであって、失敗作がベストセラーになるなんて話、あまり聞いたことがないのですが・・・ 『沈まぬ太陽』の文学的評価はさておき、週刊現代の記事で驚かされるのはモデルとなった小倉氏への誹謗中傷です。小倉氏が自身をモデルにこの小説を書いたわけでもないのに、こんなこと書いて名誉毀損にならないのかと、他人事ながら心配してしまいます。それこそ 「開いた口がふさがらない」・・・曰く 「航空業界に生死を託すような志をもった人物ではない」、ある日航OBの言葉として 「俺が航空貨物の開発におもい悩んでいた頃は、組合のなかで成り上がることばかり考えていた。俺がマグロを空輸しようと血眼になっていた頃、彼はアフリカの駐在員になって、象を殺しては象牙を売って儲けていた。」 「俺が山で霊と暮らしていたころに、小倉は新会長にスリ寄って出世を狙っていた。」後味が悪くなったのは私だけでしょうか。 週刊朝日にしろ、この週刊現代にしろ、『沈まぬ太陽』を批判しているのは、日本航空の経営サイドにいた人ばかり・・・というのは、気のせいでしょうか。 「この記事、会社が書かせたんじゃないの」 なんて声もちらほら聞こえてきます。 『沈まぬ太陽』は、5巻で終わっていますが、日本航空では現在でも『沈まぬ太陽』が続いており、完結するのはいつの日になるのでしょう。機長組合では5月24日の組合大会で、安全に関する問題についてスト権を背景に、経営に問題の解決をせまる方針を決議しました。裁判で安全性の根拠がないことを指摘されながら、全く改めようとしないまま、今日もたくさんのお客様を乗せて日本航空の飛行機は飛んでいます。この決議は『沈まぬ太陽』の一日も早い完結を願う日本航空の機長の総意であると信じます。『御巣鷹山編』はもうたくさんです。 一機長より

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特集 : 宇宙線を考えるシリーズー宇宙線被ばく防護対策を実現させ放射線障害から身を守ろう日乗連ニュースより抜粋 機長組合より・・・・・ 日乗連発行のニュースで表現は、日本のエアライン乗員向けのものとなっていますが、乗客の皆様にも大変興味ある内容かと思います。 宇宙線を考えるシリーズ1 日乗連はかねてから乗務員の宇宙線被ばく問題について取り組んでおり、この2月には客室乗務員連絡会と合同で文部科学省など関係3省に対して「宇宙線被ばく防護に関する再度の要請」を行ないました。この要請を受けて関係当局は現在、対策の実施に向けて検討を行なっています。このような状況のなか、一日も早く私達の要請に沿った被ばく防護の対策を実現させるためには、皆さんがこの問題に強い関心を持ち、そして要求についての確信を深める事が重要になってきます。そこで、日乗連HUPER 委員会はこの機会に、この問題に関するニュースをシリーズで発行し、改めて、宇宙線被ばくの実態や問題点、取り組みの経緯、国際機関や諸外国の動き、行政当局の対応などを皆さんに紹介します。一回目の今回は、まずは「宇宙線」について簡単に解説します。 宇宙線は放射線。そして、その量は高度が高いほど、緯度が高いほど多い! 宇宙線とは宇宙空間を飛び交っている放射線のことで、一次宇宙線と二次宇宙線とに分けられます。一次宇宙線は宇宙空間を直接飛び交っている放射線のことで、超新星の爆発や太陽フレアーに由来すると言われています。そして、二次宇宙線は、一次宇宙線が地球に降り注ぎ大気を構成する元素の原子核と衝突して発生する放射線のことで、私達がレントゲンを取るときに浴びるガンマ線の類や東海村のウラン加工会社JCO臨界事故で事故を起こした作業員が浴びた中性子線といったものが含まれます。 宇宙から飛来する一次宇宙線は、大気上層の窒素や酸素などの原子核と衝突する事によって消滅し、直接地上に降り注ぐことはありませんし、私達が飛行する高度12~3km 程度の上空にもほとんど存在しません。一方、大気上層で発生した二次宇宙線は、大気による吸収が少ない分、上空ほどその量は多く、地表に近づくにつれて減少しますが、一部は地表にまで達します。つまり、二次宇宙線は私達が暮らす地上にも存在し、そして、高度が上がれば上がるほどその量が増えるということになります。また、宇宙から地球に降り注ぐ一次宇宙線が地磁気の影響で両磁極に集中することから、二次宇宙線の量は、例えば高度が同じ場合、緯度が高くなる(磁極に近づく)ほど多くなることになります。 結局、私達が飛行中に浴びる「宇宙線」とは、「宇宙から飛来する一次宇宙線が大気と衝突することによって発生する二次宇宙線という放射線であり、その量は高度が高いほど、また、緯度が高いほど多い」ということになります。 さて、そこで問題なのはその量、そして、それらが人体に与える影響です。それらについては、次回以降で説明します。 宇宙線を考えるシリーズ その2 被ばくすればするほど癌の確率が増える! 宇宙線が放射線であるということは前回ご紹介しました。そこで、今回は放射線が人体に与える影響についてお話します。放射線を浴びる事を「被曝(ひばく)」と言います。「被爆」ではありません(漢字が違います)。一般的に「曝」という字があまり使われないので、日乗連では「被ばく」と表記します。被ばくを分類する形式はいくつかあります。例えば、「急性」と「慢性」、「全身」と「局所」などです。航空機乗務員の宇宙線による被ばくは「慢性被ばく」でかつ「全身被ばく」となります。 放射線が人体に有害であることは周知の事実です。放射線によって生じる人体への影響で治療の対象となる影響を「放射線障害」と言います。良く知られているものに「癌」や「子孫に現れる障害」などがあります。放射線によって細胞内の遺伝子が傷つくことがその原因と考えられています。 放射線障害はいくつかの形式によって分類されます。例えば医学的な観点から「身体的影響」と「遺伝的影響」とに分けられます。身体的影響とは被ばくした本人の身体に現れる障害で、遺伝的影響とは子孫に現れる障害です。また、障害の現れ方で「早期障害」と「晩発性障害」とに分けられます。早期障害は被ばく後数週間以内に症状が現れるもので、皮膚や粘膜の障害、脱毛、白血球の減少などです。一方、「晩発性障害」には癌や胎児への影響、寿命短縮などがあります。 「確率的影響」これが問題! 宇宙線被ばくは賞品が「癌」の宝くじ? 放射線を防護する立場からの分類として「確定的影響」と「確率的影響」があります。「確定的影響」は、ある限界値(しきい値:それ以下なら障害が発生しない値)以上の放射線を浴びると誰にでも必ず現れる障害で、脱毛、白血球の減少などがあります。ただし、このしきい値はかなり高い値なので、放射線関連の事故でもない限り通常問題になりません。一方「確率的影響」は、しきい値が存在しないと考えられ、どんなに低い被ばく量でもそれなりの発生確率で障害が現れ、被ばく量が増えるにつれて障害の発生確率が大きくなるタイプの障害です。この確率的影響には癌と遺伝的影響があります。 確率的影響を説明するのに「宝くじ」がよく使われます。宝くじはたくさん購入するほど当選の確率が高くなります。これと同じように、放射線をたくさん被ばくするほど障害の発生する確率が高くなるのが確率的影響です。しかし、「宝くじ」と「被ばくの確率的影響」には決定的な違いがあります。宝くじの場合、抽選が終わり落選すると、その「くじ」はその後絶対に当選することはありません。ところが、確率的影響の場合、購入した「くじ」(放射線の被ばく)は、その人にとって永遠に当選の可能性のある「くじ」であり、また、やっかいなことに、生涯のあいだ何回も抽選が行なわれるのです。 つまり、ひとたび放射線被ばくすると、将来癌になったり、子孫に遺伝的影響が発生したりしないとは絶対に言い切れないのです。そして、その確率は被ばくの量に比例して確実に高くなるのです。 宇宙線を考えるシリーズ その3 乗務員の被ばくは原発労働者の4倍!? 今回は私達航空機乗務員がどの位の宇宙線を浴びているかについて説明します。 まず、単位について簡単に説明します。放射線被ばく量を表す尺度として最初に考えられたのが「吸収線量」です。これは体重1キログラム当たりに吸収された放射線のエネルギーによって決まる尺度で、単位は「グレイ」です。しかし、同じ吸収線量でも放射線の種類(例えば中性子、ガンマ線等々)によって人体が受けるダメージが違う事が分かりました。そこで、人体が受ける放射線の影響に着目し、それを表す尺度として「線量当量」が考え出されました。単位は「シーベルト(Sv)」で表します。従って、放射線障害や被ばく防護を考える場合は、このシーベルトという単位を使います。1/.1000