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「沈まぬ太陽」の反響「沈まぬ太陽」の反響

-週刊朝日 VS 週刊新潮・・・日本航空、機長組合の見解-
週刊朝日2000年2月11日号、18日号の2号にわたり “『沈まぬ太陽』を「私は許せない」” と題した記事が掲載されました。(18日号の表題は、“読者が一番泣いた「御巣鷹山編」こそ「許せない」”)
この小説のモデルにされたと思われる方々、特に“悪役”として描かれた方々の不満の声がのせられています。曰く、「俺はそんなことはしていない・・・」「そんな事実はない・・・」
また、18日号の記事の中に囲みで小説の主人公となった小倉元日航労組委員長の声が掲載されています。「作者が膨大な取材の中身を大幅に削除したり、逆に取材で言わなかったことを書いたのは当然であり、それについてあれこれ言われるのは迷惑である」とのことです。

これに対し週刊新潮は2000年2月24日号で、朝日新聞および週刊朝日の愛読者が送った週刊朝日への抗議文と、週刊朝日には取り上げられなかった御巣鷹山事故の遺族の方々の声を中心に反論記事を掲載しました。
主張の内容は、一般の読者は書かれていることがすべて事実だとは思わないであろうこと、週刊朝日の記事には御巣鷹山事故の遺族の声が全く掲載されていなかったこと、そして「実際のモデルはこういう人物だった」「自分はそんな悪人ではなかった」「御巣鷹山には恩地はいなかった」などというコメントを、得々と連ねることに、いったい何の意味があるのだろう。(下線は本文より引用)

両週刊誌の記事の中で日本航空の内部にいた人のこんな言葉がのせられていました。

まずは週刊朝日から・・・小倉氏のコメントの一部
「この小説で白日の下にさらけ出された、組合分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間たちが実際に体験させられた事実です。日本航空の経営側にいた人たちは、(中略)数々の不当労働行為やその他の不祥事を思い出されたらいかがでしょう。人間である限り、そんな事実はなかった、などとはいえないはずです。」

週刊新潮の中から・・・日航OBで航空評論家の楠見光弘氏の提言
「私は、『沈まぬ太陽』という作品は、御巣鷹山で亡くなった520人の声なき声を遺した書であると同時に“戒めの書”であると思います。現在日航は厳しい経営環境に直面していますが、この小説に描かれているような過去を清算し、反省して、将来を展望する糧とすべきではないでしょうか。そのためにも、日航は『沈まぬ太陽』を不愉快なものとして抹殺せず、きちんと向き合うべきです。それがご遺族と国民の信頼を回復し、本当のナショナルフラッグキャリアとして再生する唯一の道でしょう。」

しかし、当の日本航空の考え方は(社内誌より)

『本小説は、御巣鷹山事故に関する記述などから、舞台となる会社組織および登場人物のモデルとされる人々が、当社とOBを含む当社社員など実在の人物であることが連想され、この著作によって会社と一部個人のイメージ・名誉が著しく傷つけられており、遺憾である。
作者は巻末において「事実を取材して小説的に再構築した内容」と付言しているが、この小説が弊社をモデルとしたノンフィクションであるという意図ならば、事実無根の部分が多く、弊社をご利用される一般のお客様の誤解を招き、企業イメージを悪化させ、営業上も甚だ問題である。
弊社は、大競争時代の中においてサバイバルの途上であり、フィクションと思われるものの事実関係について争うつもりは、今のところないが、更に弊社のイメージを低下させるようであれば、別途の対応を取る所存である。』

また、2000年3月22日の経営協議会の場で次のようなやり取りがありました。

「沈まぬ太陽」に関する週刊朝日の記事について
(機長・先任ニュースより)

<日本航空が山崎豊子氏に脅迫まがいの文を送る>
組合:「沈まぬ太陽」に関して広報部長から2月1日付で業務連絡が出された。同日週刊朝日に「沈まぬ太陽」に関する記事が掲載され発売されている。事前にこの記事を知っていたのか?

新町広報担当取締役:中身について事前に話し合うことは一切していない。

組合:会社は山崎豊子氏に「沈まぬ太陽」の発行許諾の撤回、映画化、テレビ・ラジオ・ドラマ化の中止、日本航空と無関係の架空の小説であることの告知と、掲載に対する謝罪を申し入れていることは事実か?

新町取締役:JALとして代理の弁護士を通して出した。大きな世間的社会問題になったので、兼子社長も含めて機関として決定して出した。

<兼子社長の変節!?>
組合:1月27日の機長組合との役員懇談会の席上、社長は小説「沈まぬ太陽」について機長から読んだかどうか聞かれて「コメントはない」といっていたではないか。それが急に脅迫的文書まで送る事態となっている。考え方が変わった理由を説明する必要があるのではないか。

兼子社長:その時には感想まで求められなかった。感想を聞かれたならばこのように答えたであろう。

組合:山崎豊子氏に対する申し入れ文書の中で、事実無根と主張しているがどこの部分が事実無根なのか。

新町取締役:この場では説明できない。別の場を設定して説明したい。

組合:山崎氏への申し入れ文の中に「営業上甚大な影響がでている」とあるようだが、具体的数値など、根拠はあるのか?

新町取締役:具体的数字を出すことはできないが、日本航空のイメージを落とすことは、有形無形にダメージを与えることになる。

<日航経営者、恥の上塗り>
組合:日本航空には真面目にやっている人達もいるとして、逆に旅客から評価される面もあるのではないか。営業上甚大な影響というならば、旅客数・トンキロなど具体的数字を出さなければ、単なる脅迫と捉えられる。

新町取締役:ダメージを定量的に断ずるのは極めて難しいが、脅迫ではない。

組合:先程の経営の説明でも、昨年より旅客輸送は伸びており、良くなっている。日本航空としては恥の上塗りと言わざるを得ない。また、この様な行為は、出版妨害に当たるのではないか。

新町取締役:そのようなものには当たらない。

組合:日本航空の対外イメージや公共交通機関の責任を云々するのであれば、「安全上問題あり」とした地裁判決を守らないことの方が、労使関係を悪化させ、ストライキにまで発展する。そういったことの方が企業のイメージダウンとなるのではないか。

兼子社長:そういう比較の問題ではない。

組合:今のような経営の対応では、労使関係はうまくいかない。

ということで、過去を清算し、反省する気はあまりないようです。もっとも、素直に反省できる会社なら小説のモデルにはならなかったでしょうが・・・

最後に週刊朝日の記事に対する機長組合の見解を掲載します。

週刊朝日2月11,18日号(「沈まぬ太陽」を私たちは許せない)の正しい読み方(機長組合ニュース14-140より)
山崎豊子作の「沈まぬ太陽」が2百万部を超す大ベストセラーとなっていることはご存知のとおりです。週刊新潮での連載が始まって以来、お客様から「JALってすごい会社だネ」と言われたとか、社歴の長い人が「俺もそう思っていた」と話していたとか、新人から「全労ってひどい組合ですネ」との感想が出されたなど、社の内外でさまざまな議論を醸し出しています。
そんな中、週刊朝日は2月11日、18日号の2回に分けて山崎豊子氏を主に批判する人物を中心とした特集記事を連載しました。これを受けて会社は週刊朝日の機内搭載の拒否と思いきや、それどころか発売日の2月11日に合わせて小説「沈まぬ太陽」に対する当社の考え方なる業連を出しました。また社内報を出して会社の考え方を社員に徹底するなど、今回は真っ向勝負に出ています。こうなってくると国民航空=日本航空が証明されたも同然です。組合も参戦せざるを得ないでしょう。

週刊朝日の記事についてここだけは是非確認したいものです。

<利光元社長への疑問>
Q利光さん、あなたがそれ程までに小説「沈まぬ太陽」に憤慨するのであれば、特別販売促進費が毎年どのくらいの額になるのか?

その内訳としてどこの会社にどのくらい支払われているのか?

を組合に説明すべきです。

Q昨年夏、あなたの自宅にピストルで銃弾が撃ち込まれましたが、思い当ることはないのですか?家を間違えられたとでも言うのですか?

<週刊朝日記者への疑問>
Qせっかく関係者の取材をしたのに、どうして組合所属による差別や不 当労働行為、不当解雇・分裂などの問題について第三者機関や組合に取材をしなかったのですか?

Q小説の主な登場人物と推定されるモデル一覧表の中に、なぜ重要人物である轟鉄也(元全労委員長、JTS副社長の大島利徳氏と推定されている)と権田宏一委員長(元全労委員長、現名古屋支店長の渡辺武憲氏と推定されている)の二人を除いているのですか?

<吉高AGS特別顧問への疑問>
Q記事にある「…組合だって悪いところがあった。・・」とは具体的には何の事ですか?第三者機関から判決や命令を受けたのはあなた方ではないのですか?

<平野日航特別参与(前常務)は正直に認めています>
週刊朝日の記事から

「…日航にはたしかに、組合員に対する不当な扱いや差別人事、一部子会社での問題経営があった。…」

<どこまでがギリギリか?高級官僚と業界の癒着>
黒野前運輸事務次官(小説では石黒航空局総務課長)は正直に週刊朝日の取材に応じています。黒野氏は昨年運輸省を退官しましたが、スカイマークの生みの親で、航空の規制緩和の立役者とまで言われていました。また航空局長から初めて運輸事務次官となったキャリア組のエリート中のエリートです。しかし退官の直前に、大蔵省接待で話題となった風俗しゃぶしゃぶに日航幹部と一緒に出入りしていた事が入店者名簿で明らかとなりました。

週刊朝日の記事から

「航空会社の人と食事も酒もともにしたことがないと言うつもりはない。…行政官としてのギリギリのモラルは守ってきたつもりです。…・責任ある立場になってから二次会に行かないようにしていましたから…」

注:意味深長、しゃぶしゃぶ店での食事は通常一次会のようですが、ギリギリとは何か基準があるのでしょうか?

<百戦錬磨、派閥の領袖三塚氏と、山地元社長の反応>
「沈まぬ太陽」の記事について三塚氏はインタビューで「自分が出て騒ぎになるのも大人げない」とコメントしているようです。また山地元社長はゴルフとカラオケで忙しいのでしょうか「全く読んでないのでコメントのしようがない」と取材で応えているようです。

<まとめ>
今回の問題は、あくまでも小説の世界と割り切れないところに日本航空の黒い部分の根深さがあります。週刊新潮で連載が始まった時には機内搭載拒否で抵抗してみたものの、2百万部の売れ行きとなっては無視できなくなりました。誰かの号令で反撃開始となったようです。週刊朝日にコメントが出されているように、まだまだ色気のある人、したたかな人、過去の人とそれぞれ小説に対する反応を異にしているのも興味深いところです。

その筋の話によれば、日航お抱えのいつもの新聞記者が「沈まぬ太陽」に反論する単行本を出版するとの事です。今回の記事はその前哨戦としてのジャブと言ったところなのでしょう。ところで今回の週刊朝日の記事、読んだ方にはお分かりの事と思いますが、「沈まぬ太陽」の第五巻・会長室編(下)の10章とどこか似ています。小説に出てくる日本ジャーナルの事です。「朝日の名前があるだけについ信頼して…」と言うのはよくある話です。

週刊朝日の販売部数が伸びないと言われているのは、今回のように読者の反権力という朝日への期待に反して、日航経営と政界・御用組合幹部との癒着の実態に目をつむり、事件の本質にメスを入れるという姿勢に欠けているからでしょう。通り一遍のワイドショー並みの記事は専門の別のアサヒに任せた方がよっぽど面白いでしょう。

もっとも朝日が「沈まぬ太陽」2百万部の売上げにあやかって、その2百万部読者に週刊朝日を売り込もうと考えてのことなら理解できるところです。しかし万が一にもそのような発想からの二週連載であるならば、読者は見抜き、いずれ離れていくでしょう。

PIOとはPIOとは

米国の航空専門誌(Aviation Week and Space Technology) 1997,3,24より引用 National Research Councilの最近の発表によれば、新しいFly-by-WireやFly-by-Light航空機では、Flight Controlに関する予想外の問題が発生している。 本来、不安定な飛行機に対して、安定性及び操縦性を与えるために開発されたFly-by-Wire等の新技術は、意図せざる方向への効果と予期せぬ問題を引き起こす可能性を、潜在的に持っている。 このような航空機の取り扱いに対する弊害を探し出すには、設計段階でのより慎重な検討や、より多くの試験飛行・Simulatorによる検証が必要となる。 最近起こった軍や民間のFly-by-wireの航空機が巻き込まれた事故・インシデントに鑑み、NASAはNational Research Council(NRC)に対して、飛行の安全にかかわるAircraft-Pilot Coupling(APC)の研究をするよう依頼した。 その目的は、Pilot・航空機・操縦装置間の力学的な相互作用が、不安定な飛行状態を引き起こす状況を研究する事である。 NRC委員会はAPC(Aircraft-Pilot Coupling)という言葉を次の二つの理由から採用した。つまり、“PIO(パイロットが引き起こす振動)”という言葉から連想される、非難めいた印象を払拭する事と、単に振動だけでなく、Pilotと航空機の間で起こる、意図せざる相互作用にまで適用範囲を広げるためである。 Fly-by-wireの航空機が出現する以前は、意図せざる航空機の振動は“ヘボパイロット”のオーバーコントロールによるものだと非難され、そこからPIOという言葉が使われるようになった。しかし最新のComputer化されたFlight Control Systemにおいては、パイロットは操縦系統の一部を占めるに過ぎなくなっているという事から、委員会ではPIOの定義を“Pilot-Involved Oscillation(パイロットが巻き込まれた振動)”と変更した。PIOには軽度で簡単に押さえる事の出来る動きから、激烈で危険性を伴う振動まである。 報告によれば、パイロットのせいにされる多くのAPCは、実際の所は設計の不適切さの結果といえる。このような意図せざる振動が発生した場合、パイロットの操作はその激しい振動を押さえる方向にではなく、むしろ拡大させる方向に陥らされる可能性がある。このPIOは、命の安全が保障された安全なSimulatorでは、検証されにくいものである。 Fly-by-wireの航空機では、パイロットの操作が、操舵面には直接つながっていない。操作信号は、作動装置に電気信号として伝えられるため、パイロットは舵面の動く早さや、舵面が限度一杯に動いたなどという感覚を感じ取る事はできない。そこからパイロットの考えと実際の機体の動きに不一致が生じ、APCへとつながるのである。 Fly-by-wire機の利点は、設計者が操縦装置を非常に精密なものへと発展させる事が出来る点である。航空機の性能や安全性を高める目的で、そのSystemは飛行状態や飛行様態に応じて操縦装置の応答性を変化させる事が出来る。 適正な設計がなされていれば、操縦様態の変更はスムーズでパイロットの意に添うものであり、その操作に何の障害ももたらさない。 報告によれば、新しいFly-by-wire機のほとんどすべてが、その開発過程においてAPCを経験している。APCは通常パイロットが精密に飛行機を操縦する必要のある、最も忙しい状態において発生している。しかもそれらはちょっとした出来事が、忙しい仕事やより正確な操縦を阻害した際に起こっている。 ある特有な出来事は、パイロットと機体との力学的な関連を変化させる。 これらの中にはパイロットの操舵力の変化や、操縦装置の切り替え、ちょっとした機械的故障、それに大気の激しい擾乱などが含まれる。

事故調によって闇に葬られた123 便機内の写真事故調によって闇に葬られた123 便機内の写真

123便事故の再調査を求める?C UAL811便の急減圧事故(89年2月24日)は、減圧発生高度が約23,000ftと、123便(24,000ft)と状況が似ており、機材も同じB747でした。 UAL811便の客室乗務員が証言した機内の様子と、123便事故の状況とを比較してみましょう。 事故調の推定通りなら、突風が吹いたはずなのに‥‥ ホコリ・雑誌や手荷物が散乱しなかった123便機内 ?@ UAL811便:機内を強い突風が吹きぬけ、紙屑や雑誌が舞い上がった。客室乗務員も飛ばされそうに感じた。 123便:生存者は「機内の空気は流れなかった」と明言しています。 事故調は、計算上機内では平均20kt程度の風が吹いたことになるが、「客室後方にトイレなど流れを妨げるものがあるから、風速は天井の上側で大きく、座席付近ではこの値よりかなり小さくなる」と推論しています。 しかし、そうだとすれば空気が流れる実質的な断面積が1/3程度に狭まり、天井内の風速は60kt程度に増えて天井部分が吸い上げられ、その空気の流れやパネル破損などが発生しそうなものです。 果たして後部座席では急減圧の風を全く感じないものなのか、他の急減圧事故と明らかに異なるこの現象を裏付けるために、事故調は証言を無視したり憶測で終わらすのではなく、事実を持って証明すべきです。 新聞でも報道された機内の写真 なぜか事故調査委員会だけはその存在を無視 また異常発生後の機内後部を撮影していた写真が、時効成立後警察から遺族に返還され、新聞でも報道されました。 そこには、ホコリや雑誌、荷物類などが散乱した様子は見られず、乗客も比較的落ち着いた様子がうかがえます。 この機内を撮影した写真が存在することは、事故1年後には新聞で報道されていましたが、何故か事故調はその存在を認めてきませんでした。そして、事故調査報告書でも一切触れられていません。 なぜ事故調査委員会は、この貴重な証拠を闇に葬り去り、機内の状況を客観的に解明しようとしなかったのでしょうか。 (機長組合ニュース15-26)

実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった、日航労組元委員長 小倉寛太郎氏の海外辺地たらい回し人事の経緯を、吉原公一郎著「墜落」(大和書房)より抜粋させていただき、ご紹介します。 小倉寛太郎氏 日本航空の労働組合、いわゆる第一組合と呼ばれる労組は、1951年11月に結成された日本航空労働組合(日航労組)と、日航労組から1954年9月に分離・独立した日本航空乗員組合、日本航空整備株式会社の従業員で組織された日本航空整備労働組合(日整労組)であった。(この日整労組は63年10月の日航・日整の合併後、会社の行った分裂工作によって少数組合となり、同じく分裂させられた日航労組と66年8月に統一することになる) 日航内で自立した労働組合運動がはじめて成立するのは、1961年に小倉執行部(日航労組)が誕生してからである。では、それ以前の日航労組と会社側との関係はどうであったのか。 ?@ 組合の三役人事は、前執行部があらかじめ会社側と相談して決め、たとえば1960年度の吉高執行委員長は61年度の三役人事を小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長とすることを新町人事部長の諒解をとりつけた上で小倉氏に立候補を説得している。このように、執行部人事にあらかじめ会社が介入するやり方は、組合結成以来つづいていた。 ?A 組合三役の言動は会社の労務担当者がこれを演出するという関係にあり、たとえば分裂前の日整労組の書記長であった中村信治氏は、1965年7月、前年度執行部と会社との最後の労使協議の後、吉高労務課長らに酒食に誘われ、「私の言うことをよく聞いて今後は活動してほしい。そうしてくれれば君の前途は悪くしない」と念を押され、その後も分裂した「民労」と同じ内容で妥結することを求められている。 ?B 日航労組の三役ポストは出世コースであり、59年度執行委員の萩原雄二郎氏は62年には人事課長となり、その後現在では常務取締役(労務担当)となっている。60年度執行委員長の吉高氏は62年には労務課長に就任し、その後取締役になっているのである。  このように、会社との談合によって決められる三役が、会社側の筋書きに従って行動することにより、その見返りとして出世コースに乗るというパターンが「正常な労使関係」とされていたのであるが、それは、日航の路線拡張、事業所の増大にともなって増大していくなかで、慢性的残業をともなう長時間労働や、人員の不足を埋めるため中途採用者と定期採用者・正社員との賃金の格差、臨時従業員の身分、また正社員でも零細企業を含めた「全産業平均」にすぎない賃金水準の低さ-これらの是正を求める一般組合員の要求が充満してくるという矛盾が発生する。従って、従来のように執行部を使って組合員の要求をおさえこむという方式は、必然的に破綻し、1960年の年末闘争で吉高委員長以下の執行部が、年末手当に組合要求を独断で切り下げて妥結したことに対して、オペレーションセンター支部が委員長不信任決議をし、つづく全国大会でも執行部不信任案可決寸前になる。  このようななかで、61年度の執行委員長のポストを進んで引き受ける者がなく、吉高委員長は勝手に小倉寛太郎氏の立候補届を提出し、既成事実が作られた上で小倉氏は委員長を引き受けることになるのである。  「昭和36年度小倉執行部において日航労組ははじめて『会社のヒモがつかない』執行委員長を持つことができたわけである(吉高前委員長が、『小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長』の線で人事部長の諒解をとりつけて来た事実は、小倉にとっては委員長職を引き受ける理由ではなく、むしろ吉高氏からの立候補受諾の説得を当初拒否した理由であった。事実、小倉は前述のとおり右「了解事項」に拘束されることなく、規約上の三役指名権を行使し、亀川氏に代えて境栄八郎氏を副委員長に指名したのであった)。  そして小倉執行部(昭和36年度・37年度)、および境執行部(昭和38年度・39年度・40年度)のもとにおいて、十分な職場討議を経て組合員の要求をまとめ、組合員の立場に立って会社に対し率直に要求を提示し、正当な団体行動権の行使を通じ、あるいはこれを背景として会社と堂々と交渉するという、あたりまえの労働組合の姿が確立されたのである」(1969年3月31日「東京都労働委員会に対する『最終陳述書』」)  小倉執行部が成立した年、日航労組は時間短縮、労働協約の改訂、年末一時金のアップ、客乗ジェット手当改訂の要求を掲げて初のスト権を確立し、翌年ストに突入している。  この闘争を通じて1956年10月以来の労働協約の改訂が合意され、新協約には賃金や労働時間などの労働条件の引き上げが当然のことながらもりこまれ、またユニオンショップ制の強化、規約所定の組合各機関の会合の時間内保障等の組合の権利を伸長させたのである。そして、?@賃金水準は62年から65年までの毎春闘でのベースアップのつみかさねによって、「全産業平均」から「主要企業平均」の水準に達した。?A労働時間の短縮(週43時間を38時間に)、長期臨時従業員全員の正社員化、年休改善、定年延長、生休の一期間二日有給化、?B年齢調整(晩学調整)制度と中途採用者の経験調整制度等、今日の日航の労働条件の水準は、そのほとんどが小倉執行部時代の日航労組の活動によって獲得したものであった。  ちょうど、この時期は日航にとって収益の低下から無配転落、さらに翌年は経営赤字を記録するときにもあたっている。  日航労組の『最終陳述書』は、次のように書いている。  会社は、日航労組が小倉・境執行部をいただくことによって御用組合から脱皮し、一般組合員の要求を民主的手続を通じてくみあげ、その要求実現のためにたたかうまともな組合に成長したことに危機感を抱き、日航労組を昔日の御用組合の姿に戻すための数年間(昭和37年から40年)にわたり、あらゆる手段を用いて介入した。介入のパターンは一方において組合執行部を攻撃(?@組合役員・活動家に対する人事異動により一般組合員と接触を断つ、?A正当な組合活動への大量処分、?Bこれらを推進するうえで障害となる労働協約を廃棄する、?C管理職を使って、活動家の役員立候補を阻止する、など)するとともに、反執行部派を育成強化し、これに執行権を握らせるよう画策する(?@反執行部派に対する資金援助、?A職制機構を通じての役選票よみ等選挙対策の推進、?B職制に反執行部的意識を注入するための監督者研修に名を借りた思想教育、?C反執行部派に「今の執行部は問題解決の機能を失った」とアピールさせるためのお膳立てとして、団交形骸化、膠着の事態をたえず生じさせる)というものである。そして、足かけ4年にもわたるこの種の介入をやりつくしても、なお御用幹部が多数組合員の支持をとりつける可能性のないことを会社が知ったとき、組合を分裂させるという方向転換が指令されたのであった。  小倉寛太郎氏が二期つとめた委員長の座を降りるのは1963年6月であるが、日本航空の労務管理がどのようなものであるかを端的に示しているのが、小倉元委員長に対する海外たらい回し人事であった。  すなわち、小倉氏が委員長の座を降りて本社予算室に復帰して一年にも充たない翌年早々カラチ支店への転勤を命じられ、66年3月にはテヘランへ、70年1月にはナイロビへと、テレックスがたたきだす一片の命令によってつぎつぎに海外をたらい回しされるのである。  小倉氏に対しては、小倉執行部によって日航労組が初のストライキを実施した1962年当時から、すでに会社首脳部のあいだでは「くびにしろ」という声があり、そのために入社時にさかのぼって、小倉氏の勤怠状況が調査されている。本人が無遅刻・無欠勤であったため目的を果たせず、63年秋には新町予算室長が小倉氏に「おまえみたいなアカがこの予算室にいるのは非常に残念だ。とっとと出ていけ」といった事実さえあった。そして、その翌年早々にカラチ転勤となるのだが、彼には海外支店の総務主任の職務内容をなす経理・財務・調達・人事などの仕事についての経験はなく、しかも当時、組合の会計監査の地位にあり、母親と未成年の弟を同居して扶養中という生活環境の上からも転勤に不向きな条件にあった。従って、このような異動は常識では考えられないことであった。  日航の「海外在勤員の在勤期間基準」によれば、生活条件の劣悪な「特別地域」における在勤期間は二年とされており、赴任に先だって小倉氏は当時の松尾社長に、「会社の規定では任期二年ということになっているので、二年たったら必ず帰してもらえるのでしょうね」と念をおしている 。これに対して松尾社長は、「二年先のことはわしにまかせろ。悪いようにはせん、必ず責任を持つ」と答えている。  だが二年後には、支店開設のため総務主任としてテヘランに赴任させよというテレックスに接し、このことで、通常ならばこの人事について事前に本社から相談にあずかっているはずの支店長も、「あなたの問題に関しては私などの及ぶところではない、私にいくらいっても無駄である」と、小倉氏にいったという。  テヘランに赴任直後、小倉氏は母親の訃報で休暇をとって帰国したが、このとき松尾社長は彼の顔を見るなり「すまん、すまん」といい、「テヘラン支店の開設が軌道に乗ったら帰してやるから、それまで待て」となだめているが、結局この約束も果たされず69年いっぱいテヘラン勤務をつづけさせられたあげく、さらにナイロビへ転勤させられるのである。  小倉氏がテヘラン支店に勤務していた1968年秋頃、本社人事部長安辺敏典氏が出張した際、小倉氏は「いつ帰してくれるのか」といったところ、安辺人事部長は「あなたが帰っても組合活動をやらない、組合と縁を切るという約束をすれば、それは簡単なんだけれども…」と、組合脱退と帰国とを取り引きする話を持ちかけている。  このとき小倉氏は、「だいたい会社が組合を分裂させてから、第一組合が非常に困難な状況になっているというのは、外地にいる私も知っております。私がかつて委員長をやっておりましたときに私を信用してくれた人たちが多く第一組合に残って、困難に負けずに頑張っている。そこで男として「私はもう組合をやめましたよ」というようなことがいえると思いますか、あなただったらどうします」と反問して、人事部長の誘いをことわっている。  ナイロビへの転勤命令は、営業所長と異なり、部下を持たない販売駐在員で、現地人ならともかく、日本人としては前例のない地位におかれたのである。