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説明会の報告説明会の報告


説明会の報告(8月26日)

123便事故 社内事故調査報告書

説明:総合安全推進室(BDZ)室長の越智副社長以下、副室長等3名

◇航空医学に新説?

BDZ(総合安全推進室):基本的には事故調の報告書と齟齬はない。123便の乗員は酸素マスクをつけずに、2万フィート以上の高度に有効意識時間を大幅に超えて留まった結果「低酸素症」にはかかったものの、その後、低高度に降下した際に何の障害も無く回復した。

◇「急減圧特有の現象は存在しなかった」

BDZ:123便の客室内では、他の急減圧事例のような現象は存在したとは認識していない。

◇物理学に新説現れる!!

BDZ:「急減圧が発生した時、後方隔壁への空気は、主として天井裏を流れ、客室には殆ど影響を及ぼさなかった」

組合:客室の天井は急減圧を遮るほど頑丈なのか!?

◇BDZは、組合の指摘に対して一切答えられず

組合:今日の説明は内容が非科学的であり疑問が更に深まった。技術的な話し合いの場を設定すると共に社内事故調査報告書を組合に開示せよ!

大村労務部長:今日の状況では話が終わったとは思えない。このままでは、いかないであろうと思うので検討する。

~航空医学の新説~

酸素マスクをつけずに有効意識時間を大幅に超えて危険域に
留まったにも拘らず、何の障害も無く『低酸素症』から回復した?   
越智副社長:8月21日に123便事故に関する社内事故調査委員会を開催し、報告書をまとめて兼子社長に報告した。社内の事故調査活動自体は、1995年に既に殆ど終了していた。本来社内の事故調査報告書は非公開が原則ではあるが、本事故の重大性に鑑みて説明の場を設ける事とした。

総合安全推進室(BDZ):既に組合に渡してある「123便社内事故調査の概要」(最終ページに添付)には書いていない部分について主に説明する。

この事故に関しては、特に減圧症と低酸素症に関して、1990年9月と1991年5月の2回にわたり、計10名の被験者により実験を行なった。結果は運輸省(当時)の航空事故調査委員会が作成した事故調査報告書と同じであった。被験者にはいつ減圧状態になったか自覚しにくいし、また低酸素症にかかっている事の自覚症状を被験者本人は認識しにくいものである。

123便の乗員は、酸素マスクを装着せずに2万フィート以上の高度を約18分間飛行していた。通常この高度に於ける有効意識時間は、約6~7分であることから、18分間は有効意識時間を過ぎており当該乗員達は低酸素症にかかっていたが、墜落前には低高度に降下しており意識は回復していたものと考えられる。

組合:123便の乗員が低酸素症から回復したのはいつか。

BDZ:・・・。

組合:有効意識時間を大幅に越えて危険域に留まり続けたにも拘らず、何の障害も無く回復したというのか。

BDZ:・・・・・・・。

組合:この点に関してIMZ(健康管理室)は何と言っているか。

BDZ:・・・。

組合:航空医学の常識を真っ向から否定しているにも拘らず、根拠が全く示されておらず信じる訳にはいかない。

「客室内では急減圧特有の現象は存在しなかった」点で認識が一致。
しかし、「急減圧は天井裏で生じたので、客室には殆ど影響がなかった」
~物理学の新説!!~
組合:この事故には2つの事実が存在する。

1つは気体後部の与圧隔壁に修理ミスがあり、そこから疲労破壊による亀裂が生じていた事、もう1つは飛行中に垂直尾翼が何らかの原因で破壊し、その際に油圧系統を全て破壊した為に操縦不能となり墜落した事、である。

この点については会社の認識も同じでよいか。

BDZ:同じである。

組合:この2つの事実を運輸省(当時)航空事故調査委員会(事故調)は『急減圧』で結び付けている。即ち、疲労破壊による亀裂が生じていた与圧隔壁が飛行中に圧力に耐えきれず破壊し、客室内の(外気圧に比べて相対的に圧力の高い大量の)空気が瞬時に垂直尾翼内に流れ込み垂直尾翼を破壊した、というストーリーである。事故調は、上記二つの事実の関係について、『急減圧』を連結器としているとの認識はあるか。

BDZ:その通りである。

組合:という事は、もし『急減圧』の存在が否定されると事故調の報告書は意味が無くなってしまうという事になるが、そのような認識はあるか。

BDZ:そういう事になる。

組合:社内の事故調査報告書には「(事故調の)報告書の推定原因は肯定しうるとの結論を得た」とある。123便に『急減圧』が存在したとする根拠は何か?

BDZ:事故調と同様に、計算の結果そうなった。

組合:事故調は、垂直尾翼が破壊するのに必要な空気量と、その量の空気が噴出する為に必要な与圧隔壁の穴の面積を算出しただけであり、『急減圧』の存在を計算で証明した訳ではない。

BDZ:・・・。

組合:実際に10万ft/Min程度の急減圧が発生した場合には、外国他社での事例からも明らかなように「客室内を突風が吹きぬけ、物が散乱し、耳が激しく痛んだり、機内温度が急速に低下した」という現象が現れる筈である。しかし、事故調の推定では「123便では30万ft/Minもの急減圧があった」とされるが、ボイスレコーダーの解析結果を見ても、生存者の証言を聞いてもそのような現象が全く見られない。それにも拘らず、123便では垂直尾翼を破壊するほどの『急減圧』が発生したと主張する根拠は何か。

BDZ:『急減圧』の存在については、日本航空として総合的に判断した。

組合:急減圧に特有の現象が認められないにも拘らず『急減圧』が発生したとする根拠を聞いている。

BDZ:他の急減圧の事例との比較・検証を行なった。B747は天井裏部分の断面積が大きく、123便では『急減圧』に伴う空気の流れは、主として天井裏部分を通ったものと考える。だから客室内では、急減圧特有の現象が現れなかったし、操縦室の扉も開かなかったのではないか。

組合:耳を疑うようなとんでもない理屈である。天井裏では急減圧が発生しても、客室内では急減圧を生じさせない程、客室の天井板は強度があるというのか。

BDZ:・・・。

組合:答えてもらいたい。

BDZ:・・・・・・・。

組合:今の理屈は非科学的であり到底受け入れられるものではない。

会社は、「123便の客室内で急減圧特有の現象が現れなかった」との認識か。

BDZ:客室内では「急減圧特有の現象が存在したとの証拠は無い」という事である。

組合:その点について、社内の事故調査報告書には記載したのか。

BDZ:書かれていない。

組合:肝心な事を書かないのでは意味が無い。

組合:今日の説明は内容が非科学的であり疑問が更に深まった。

技術的な話し合いの場を設定すると共に、社内事故調査報告書を組合に開示せよ。

大村労務部長:今日の状況では話がきちんと終わったとは思えない。

このままではいかないであろうと思うので検討する。

組合:社内の事故調査報告書は組合には見せないのか。

BDZ:社内外に非公開である。

組合:社内に非公開の事故調査報告書など無意味である。公開して安全の向上に役立てなくて何の意味があるのか。社内に開示するよう申し入れる。

なお本日、社内の事故調査に関する説明を受けたが、内容が非科学的であり疑問がさらに深まった。技術的な話し合いの行なえる場を改めて設定しない限り今日は終われない。ましてやこのような状況の中、残骸の廃棄など有り得ない事である。

我々は事故後17年間ずっと真の事故原因を究明してきた。その結果、フライトレコーダーの解析結果、ボイスレコーダーの解析結果、生存者の証言等に一切矛盾しない事故原因の仮説を持つに至った。我々の培ってきたノウハウは社内の事故調査活動に寄与する筈であり、真の事故原因究明のために早急に技術的な話し合いの場を設定するよう申し入れる。

越智副社長:機長組合、先任組合とは、これまでも安全を向上させる為の議論をしてきており、これからもそういう議論をしていかなくてはならないと思っている。今日の説明に関して皆さんが納得しておらず、技術的な説明の場を要求している事はわかった。どういう形でできるか、考える時間を頂きたい。

組合:総合安全推進室長である副社長のあなたが判断しなくていったい誰が判断するのか。こんな非科学的な説明では幕引きにできない。あわせて社内事故調査報告書の組合への公開についても答えてもらいたい。

大村労務部長:今日の状況では話がきちんと終わったとは思えない。このままではいかないであろうと思うので検討する。

航空界の常識を覆す事故調の見解航空界の常識を覆す事故調の見解

航空界の常識を覆す 事故調の見解 「30万ft/min程度の減圧は、 人間に嫌悪感や苦痛を与えない」??? 123便事故の再調査を求める?E 「急減圧説」を採ると「なぜ乗員は酸素マスクを着用しなかったのか」「なぜ酸素なしで2万ft以上の高度に18分間もいたのに、意識障害を起こさなかったのか」といった大きな矛盾が残ります。 事故調査報告書の115頁に、この点に関する記載があります。  CVR記録にない「酸素マスク着用」の会話を捏造!?「運航乗務員の酸素マスクの着用については、CVRに18時26分30秒(注:異常発生から約2分後)以降数回にわたり、酸素マスクの着用についての声が記録されているが、(中略)(3名の乗務員の)何れも酸素マスクを着用しなかったものと推定される」(注:下線は組合による) しかし報告書のCVRの記録でも、この時刻に酸素マスクに関する会話は一切ありません。酸素マスク着用についての会話は、異常発生の9分以上後の18時33分46秒が初めてです。 なぜこれほど明らかな誤りを犯しているのでしょう。 9分間、酸素マスク着用が乗員の念頭になかった事実は重要なポイントのはずです。 「急減圧はなかった」と解釈すれば、矛盾は全て無くなるが…更に報告書では、次のように記述しています。 「従来からその着用について教育訓練を受けている運航乗務員が、減圧状態に直面しながらも酸素マスクを着用しなかったことについては、その理由を明らかにすることはできなかった。」 急減圧が発生した場合、まず酸素マスクを着用し、直ちに緊急降下を実施することは、緊急操作の基本中の基本です。 異常発生後、「急減圧」とのCALLは無く、酸素マスクも付けず、管制機関にFL240からFL220へ2,000ftしか降下を要求していないことは、乗員が急減圧と捉えていないからに他なりません。 「試験結果にもみられるように個人差はあるものの、同機に生じたとみられる程度の減圧は人間に対して直ちに嫌悪感や苦痛を与えるものではないので、乗務員は酸素マスクの着用について心に留めつつも飛行の継続のために操縦操作を優先させていたものと考えられる。」 繰り返し訓練される「酸素マスク着用」の手順を、あえて無視するなど、乗員の常識では考えられません。 また「あえて意図的に酸素マスクを付けなかった」とする客観的根拠は、どこにも見当たりません。冒頭に紹介したCVRの記録にない会話をもって「酸素マスクの着用について心に留めていた」とするならば、「急減圧説」に固執するがあまり事故調が恣意的に捏造したと受け取られても仕方がないでしょう。 事故調が推定している30万ft/minという減圧率は、「約6秒間で地上からエベレストの山頂近くに押し上げられた」ほどの急激なものです。 「30万ft/minの減圧は、人間に嫌悪感や苦痛を与えない」ことが事実なら、航空界の常識・定説を覆す新発見と言えます。 (機長組合ニュース15-36)

実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった、日航労組元委員長 小倉寛太郎氏の海外辺地たらい回し人事の経緯を、吉原公一郎著「墜落」(大和書房)より抜粋させていただき、ご紹介します。 小倉寛太郎氏 日本航空の労働組合、いわゆる第一組合と呼ばれる労組は、1951年11月に結成された日本航空労働組合(日航労組)と、日航労組から1954年9月に分離・独立した日本航空乗員組合、日本航空整備株式会社の従業員で組織された日本航空整備労働組合(日整労組)であった。(この日整労組は63年10月の日航・日整の合併後、会社の行った分裂工作によって少数組合となり、同じく分裂させられた日航労組と66年8月に統一することになる) 日航内で自立した労働組合運動がはじめて成立するのは、1961年に小倉執行部(日航労組)が誕生してからである。では、それ以前の日航労組と会社側との関係はどうであったのか。 ?@ 組合の三役人事は、前執行部があらかじめ会社側と相談して決め、たとえば1960年度の吉高執行委員長は61年度の三役人事を小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長とすることを新町人事部長の諒解をとりつけた上で小倉氏に立候補を説得している。このように、執行部人事にあらかじめ会社が介入するやり方は、組合結成以来つづいていた。 ?A 組合三役の言動は会社の労務担当者がこれを演出するという関係にあり、たとえば分裂前の日整労組の書記長であった中村信治氏は、1965年7月、前年度執行部と会社との最後の労使協議の後、吉高労務課長らに酒食に誘われ、「私の言うことをよく聞いて今後は活動してほしい。そうしてくれれば君の前途は悪くしない」と念を押され、その後も分裂した「民労」と同じ内容で妥結することを求められている。 ?B 日航労組の三役ポストは出世コースであり、59年度執行委員の萩原雄二郎氏は62年には人事課長となり、その後現在では常務取締役(労務担当)となっている。60年度執行委員長の吉高氏は62年には労務課長に就任し、その後取締役になっているのである。  このように、会社との談合によって決められる三役が、会社側の筋書きに従って行動することにより、その見返りとして出世コースに乗るというパターンが「正常な労使関係」とされていたのであるが、それは、日航の路線拡張、事業所の増大にともなって増大していくなかで、慢性的残業をともなう長時間労働や、人員の不足を埋めるため中途採用者と定期採用者・正社員との賃金の格差、臨時従業員の身分、また正社員でも零細企業を含めた「全産業平均」にすぎない賃金水準の低さ-これらの是正を求める一般組合員の要求が充満してくるという矛盾が発生する。従って、従来のように執行部を使って組合員の要求をおさえこむという方式は、必然的に破綻し、1960年の年末闘争で吉高委員長以下の執行部が、年末手当に組合要求を独断で切り下げて妥結したことに対して、オペレーションセンター支部が委員長不信任決議をし、つづく全国大会でも執行部不信任案可決寸前になる。  このようななかで、61年度の執行委員長のポストを進んで引き受ける者がなく、吉高委員長は勝手に小倉寛太郎氏の立候補届を提出し、既成事実が作られた上で小倉氏は委員長を引き受けることになるのである。  「昭和36年度小倉執行部において日航労組ははじめて『会社のヒモがつかない』執行委員長を持つことができたわけである(吉高前委員長が、『小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長』の線で人事部長の諒解をとりつけて来た事実は、小倉にとっては委員長職を引き受ける理由ではなく、むしろ吉高氏からの立候補受諾の説得を当初拒否した理由であった。事実、小倉は前述のとおり右「了解事項」に拘束されることなく、規約上の三役指名権を行使し、亀川氏に代えて境栄八郎氏を副委員長に指名したのであった)。  そして小倉執行部(昭和36年度・37年度)、および境執行部(昭和38年度・39年度・40年度)のもとにおいて、十分な職場討議を経て組合員の要求をまとめ、組合員の立場に立って会社に対し率直に要求を提示し、正当な団体行動権の行使を通じ、あるいはこれを背景として会社と堂々と交渉するという、あたりまえの労働組合の姿が確立されたのである」(1969年3月31日「東京都労働委員会に対する『最終陳述書』」)  小倉執行部が成立した年、日航労組は時間短縮、労働協約の改訂、年末一時金のアップ、客乗ジェット手当改訂の要求を掲げて初のスト権を確立し、翌年ストに突入している。  この闘争を通じて1956年10月以来の労働協約の改訂が合意され、新協約には賃金や労働時間などの労働条件の引き上げが当然のことながらもりこまれ、またユニオンショップ制の強化、規約所定の組合各機関の会合の時間内保障等の組合の権利を伸長させたのである。そして、?@賃金水準は62年から65年までの毎春闘でのベースアップのつみかさねによって、「全産業平均」から「主要企業平均」の水準に達した。?A労働時間の短縮(週43時間を38時間に)、長期臨時従業員全員の正社員化、年休改善、定年延長、生休の一期間二日有給化、?B年齢調整(晩学調整)制度と中途採用者の経験調整制度等、今日の日航の労働条件の水準は、そのほとんどが小倉執行部時代の日航労組の活動によって獲得したものであった。  ちょうど、この時期は日航にとって収益の低下から無配転落、さらに翌年は経営赤字を記録するときにもあたっている。  日航労組の『最終陳述書』は、次のように書いている。  会社は、日航労組が小倉・境執行部をいただくことによって御用組合から脱皮し、一般組合員の要求を民主的手続を通じてくみあげ、その要求実現のためにたたかうまともな組合に成長したことに危機感を抱き、日航労組を昔日の御用組合の姿に戻すための数年間(昭和37年から40年)にわたり、あらゆる手段を用いて介入した。介入のパターンは一方において組合執行部を攻撃(?@組合役員・活動家に対する人事異動により一般組合員と接触を断つ、?A正当な組合活動への大量処分、?Bこれらを推進するうえで障害となる労働協約を廃棄する、?C管理職を使って、活動家の役員立候補を阻止する、など)するとともに、反執行部派を育成強化し、これに執行権を握らせるよう画策する(?@反執行部派に対する資金援助、?A職制機構を通じての役選票よみ等選挙対策の推進、?B職制に反執行部的意識を注入するための監督者研修に名を借りた思想教育、?C反執行部派に「今の執行部は問題解決の機能を失った」とアピールさせるためのお膳立てとして、団交形骸化、膠着の事態をたえず生じさせる)というものである。そして、足かけ4年にもわたるこの種の介入をやりつくしても、なお御用幹部が多数組合員の支持をとりつける可能性のないことを会社が知ったとき、組合を分裂させるという方向転換が指令されたのであった。  小倉寛太郎氏が二期つとめた委員長の座を降りるのは1963年6月であるが、日本航空の労務管理がどのようなものであるかを端的に示しているのが、小倉元委員長に対する海外たらい回し人事であった。  すなわち、小倉氏が委員長の座を降りて本社予算室に復帰して一年にも充たない翌年早々カラチ支店への転勤を命じられ、66年3月にはテヘランへ、70年1月にはナイロビへと、テレックスがたたきだす一片の命令によってつぎつぎに海外をたらい回しされるのである。  小倉氏に対しては、小倉執行部によって日航労組が初のストライキを実施した1962年当時から、すでに会社首脳部のあいだでは「くびにしろ」という声があり、そのために入社時にさかのぼって、小倉氏の勤怠状況が調査されている。本人が無遅刻・無欠勤であったため目的を果たせず、63年秋には新町予算室長が小倉氏に「おまえみたいなアカがこの予算室にいるのは非常に残念だ。とっとと出ていけ」といった事実さえあった。そして、その翌年早々にカラチ転勤となるのだが、彼には海外支店の総務主任の職務内容をなす経理・財務・調達・人事などの仕事についての経験はなく、しかも当時、組合の会計監査の地位にあり、母親と未成年の弟を同居して扶養中という生活環境の上からも転勤に不向きな条件にあった。従って、このような異動は常識では考えられないことであった。  日航の「海外在勤員の在勤期間基準」によれば、生活条件の劣悪な「特別地域」における在勤期間は二年とされており、赴任に先だって小倉氏は当時の松尾社長に、「会社の規定では任期二年ということになっているので、二年たったら必ず帰してもらえるのでしょうね」と念をおしている 。これに対して松尾社長は、「二年先のことはわしにまかせろ。悪いようにはせん、必ず責任を持つ」と答えている。  だが二年後には、支店開設のため総務主任としてテヘランに赴任させよというテレックスに接し、このことで、通常ならばこの人事について事前に本社から相談にあずかっているはずの支店長も、「あなたの問題に関しては私などの及ぶところではない、私にいくらいっても無駄である」と、小倉氏にいったという。  テヘランに赴任直後、小倉氏は母親の訃報で休暇をとって帰国したが、このとき松尾社長は彼の顔を見るなり「すまん、すまん」といい、「テヘラン支店の開設が軌道に乗ったら帰してやるから、それまで待て」となだめているが、結局この約束も果たされず69年いっぱいテヘラン勤務をつづけさせられたあげく、さらにナイロビへ転勤させられるのである。  小倉氏がテヘラン支店に勤務していた1968年秋頃、本社人事部長安辺敏典氏が出張した際、小倉氏は「いつ帰してくれるのか」といったところ、安辺人事部長は「あなたが帰っても組合活動をやらない、組合と縁を切るという約束をすれば、それは簡単なんだけれども…」と、組合脱退と帰国とを取り引きする話を持ちかけている。  このとき小倉氏は、「だいたい会社が組合を分裂させてから、第一組合が非常に困難な状況になっているというのは、外地にいる私も知っております。私がかつて委員長をやっておりましたときに私を信用してくれた人たちが多く第一組合に残って、困難に負けずに頑張っている。そこで男として「私はもう組合をやめましたよ」というようなことがいえると思いますか、あなただったらどうします」と反問して、人事部長の誘いをことわっている。  ナイロビへの転勤命令は、営業所長と異なり、部下を持たない販売駐在員で、現地人ならともかく、日本人としては前例のない地位におかれたのである。

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