Day: July 8, 2002

乗員組合に対する会社の労務政策の歴史乗員組合に対する会社の労務政策の歴史

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった日航労組元委員長 小倉寛太郎氏は9年7ヶ月もの長期にわたり、海外の辺地をたらい回しにされました。(“実録”沈まぬ太陽アフリカ編へ)更に悲惨なのは、乗員組合の役員4名が正当に行われたストライキを違法とされ、これを理由に解雇されたことでしょう。この不当解雇を撤回させるまでに8年2ヶ月の歳月を費やしました。(解雇撤回までの経緯はこちら)小説の背景となった時代を中心に、日本航空の経営がとってきた労務対策の数々を年表でご覧ください。  1951年 日本航空創立1960~1961年  日航労組委員長に小倉氏就任  初めてのジェット機DC-8がサンフランシスコ線に就航、日本人により運航が始められた。会社は外国人乗員をジェット機に乗せないと公約し、国際水準、IASCO(乗員の派遣会社)並にという乗務手当の要求を突っぱねる。組合との約束もあり、比較的賃金も安かったレシプロ機へ外国人乗員を振り向けた。さらに、移行後の穴埋めに外国人乗員追加導入。  1962年  日航労組委員長に小倉氏再任 ・会社はミリオンダラー作戦と称し、年々増大する運航直接費、整備費、乗員訓練等の節約に関して「合理化」の諸対策を立てる。 1963年   ・乗員不足に困った会社は61年の公約を破り、DC-8に外国人を乗せると通告。組合は機長4人、航空機関士4人に限り認め、争議時には外国人クルーを使用しないという覚書を会社と取り交わす。  12月   ・DC-8が沖縄上空で訓練中、エンジン2基の脱落事故。 1964 年   小倉元日航労組委員長、カラチ支店へ転勤。 9月  ・会社は覚書に違反し、外国人6人をコンベアに乗務させると通告。訓練は既に始められていた。会社発言「組合員のプロモーションのことを考えて善意でやった」「セーフティキャプテン(教官機長)だから機長でもクルーでもない」「争議時に外国人クルーを使用しないとあるのは協定書の印刷ミスである」 ・乗員編成権は会社にあるとし、労使間の解決を見ないまま、カイロ-カラチ間に乗務する航空士を降ろすことを強行した。降ろした航空士をオリンピックによる太平洋線の大増便に当てたかった。 ・協定違反や労使慣行無視が相次ぐ。  11月  ・会社、一時金の業績リンク制を提案。 ・組合、外国人導入、航空士問題に関し、指名ストライキを決行。  12月  ・賃上げ、年末手当に関して、指名ストライキを決行。 ・会社は12月の組合のストに対抗し、違法ロックアウトを行う。  1965年   ・会社は、違法ロックアウトを再び行ったり、社長を始め管理職がいろいろな言葉を使って、不当労働行為を承知で組合の切り崩しを図る。2月