1985(昭和60)年8月12日,123便(JA8119号機)が群馬県山中に墜落し,520名もの尊い生命が奪われ,単独の事故としては史上最悪の大惨事となりました。
32期執行部が発足に当たり,『職場を見ず,政府・財界の意向のみが全てに優先される今日の日航内の状況からは,質の高い安全やサービスが期待されるのは困難な状況といえます』との見解を発表した直後の事故でした。
日本航空は,72(昭和47)年のニューデリー,モスクワ,77年のアンカレッジ,クアラルンプール,82年の羽田沖,そして今回の123便事故と航空史上他に例を見ないような異常な事故を次々と引き起こし,これまでに乗客・乗員734名もの尊い命を失ってきました。
「何故,日航のみに事故が集中するのか」という点について,その背景として従来から主張し続けてきた点は,
@ 組合を分裂させるという会社の労務政策があり,特に乗員の職場では機長の組合活動の自由が奪われ,自由にものの言えない状況があったこと。
A 政府・財界・臨調の意向を受け,安全よりも利益を優先し,職場の意見を聞かない経営姿勢であったこと。
この2点です。この2点に沿って見てみましょう。
日本航空では,72(昭和47)年のニューデリー事故が起こるまで,(52年の自主運航開始後)乗客の人身事故はなく、世界一安全な航空会社であると自負していました。
しかし、実際には資料にある通り,解雇分裂攻撃が強まる頃から,アクシデント・インシデントが急増しています。
60(昭和35)年のジェット機の導入により、組合では外人乗員との大きな賃金格差への不満が表面化し,初めてスト権をたてるなどの団結強化につながっていきます。
一方会社もジェット機の導入により,大きさも早さもレシプロの2倍で,生産性は一挙に4倍となり大幅な利益の増大がありました。
儲かるとなれば出来るだけ飛ばそうということから日航の事業計画は急速に膨れ上がり、乗員計画がそれに追いつけなくなりました。協定を破って,更に日本の人の何倍もの賃金を払ってまで外人乗員を入れた理由がそこにあります。
そして会社は,この乗員不足を金をかけずに補充するために,乗員に対する「合理化」,労働時間の延長を計画します。
組合が急速に強くなったことと,「合理化」による低コスト化の必要性が増したことから,会社は組合対策の強化に乗り出してきたのです。
そして,解雇分裂の嵐が吹き荒れるなかで,サンフランシスコ線のシングル乗務など乗務時間の大幅延長を行っています。また,整備や訓練の簡素化も行っています。こうした営利優先要全軽視の姿勢が,連続事故の背景となつていったことは言うまでもありません。
サンフランシスコ空港離陸後高度4500フィートを上昇中,NO.1エンジンが爆発し,エンジンと主翼に火災を発生させた。火災は10秒後に消し止めたものの油圧系統に損傷を受け,操縦困難に陥った。しかし,機は180度旋回してサンフランシスコヘ戻る余裕も,満載した燃料を投棄して最大著陸重量まで落とす余裕もなく,フラップも通常着陸時の半分の角度しか出さないまま対岸のオークランド空港へ緊急着陸した。原因は,エンジンの爆発による破片が油圧系統を切断したのであるが,このエンジンはオーバーホール直後のものであり,機体での使用時間はわずか21時間であった。ロープレッシャーコンプレッサーのケースにとりつけるトルクリングをオーバーホール時にしっかり鋲止めしていなかったとされる。整備現場では,時あたかも,一時金をめぐって業績リンクを受け入れるかどうか,仕事はそっちのけで会社が組合内の多数派工作を行っていた時期である。
雲の低くなれこめたサンフランシスコ空港に進入降下中,降下コースを外れて8キロ手前のサンフランシスコ湾に着水した。原因は日本人機長と外人副操縦士がともに新しいフライト,ディレクターの取り扱いに不慣れだったことと,進入降下時の運航規定(特に高度の確認)を守らなかったために、規定の降下コースよりはずれて低く飛んでいたことに気付かず,雲の下に出たときには既に海面が迫っていて回避が間に合わなかったとされている。
NTSB(米国運輸安全委員会)は問題として次の点を指摘した。
@ 当時DC−8=62型機は,日本航空が導入して間もない新型機で,そこに備えられたフライト・ディレクターや自動操縦装置に対する乗員の訓練が不十分であった。(注=しかも乗員は,旧来のDC−8=53型機や55型機と新型の62型機に交互に乗務することもあって,計器使用の混乱と不安が起こっていた。このことは,新型機の計器がいかにすぐれていても,それに対する乗員の慣熟訓練がおろそかであると,かえって安全を阻害する要因になることを示している。)
A 機長(日本人)は、気圧高度計の調子が悪かったため離陸時から気にかけていた。そして最終進入態勢に入ったとき、副操縦士(外国人)に対し副操縦士席側の気圧高度計の読みなどについて英語で質問したが,意味がよく伝わらず,副操縦士から適切な答えが返って来なかった。これは両者の言語の相違に基づくものであり,「このような誤解のあらゆる可能性を除外するため適切な方式および訓練を行なうことは,そのような環境(注=言語の違うパイロットを雇っている意味)で運航している会社の責務である」
BILS電波に正しく乗るためには,ILS電波をキャッチする場所のアウターマーカー(外側無線標識)通過時の規定高度の確認が何よりも重要であり,さらにその後も,各種計器のクロス・チェックによりILS電波に正しく乗っているかどうかは容易に確認できるにもかかわらず,『志賀号』の乗員はこれらのチェックをしなかった。とくに気象条件が悪いときには,速度・降下率・位置を適切に保つよう運航規程を厳守しなければならない。等々。
当時・新型のFDについては,1時間半ほどの座学しか行なわれていなかったそうです。
航空会社で必要なものは,基本的には乗客と航空機と必要な数の労働者です。中でも熟練を必要とする労働力は急激に確保できず,乗員や熟練した整備士の数がその航空会社の運航能力を決定する要素になっています。これが,事業規模を急激に拡大しようとした時にネックとなります。そこで外国人乗員の導入となるわけです。このことは会社の作成した「大航空時代」と言うパンフレットの中でも,企業の成長がダイレクトに乗員のマンニングにかかってくることを認めています。
前回の外国人乗員が大量に導入された時には,それと平行して,日本人乗員の養成訓練もかなり簡略化されるという問題もありました。サンフランシスコ沖不時着水事故は,外国人乗員と日本人機長の間の言語上の問題から,意思疎通がうまく行われなかったこと,訓練の簡略化により機体のシステムに慣れていなかったことが原因と見られる,とNTSBから指摘されました。
外国人乗員の急激な増加と日本人乗員の増加とが加わって,会社全体として,極めて急激な拡大になりました。69年(昭和44年)から70年(昭和45年)の1年間には219人もの乗員が増加しました。それに伴う運航能力(有効トンキロ)の増加は極めて大きく,この時には整備部門は人員増だけでは追いつかず「合理化」でこの運航能力の増大に対処することを強いられました。
外国人乗員が300人もの規模に増加した68年(昭和43年)から70年(昭和45年)にかけては,当時の主力機であったDC−8のエンジンのオーバーホールの間隔(TBO)が8,000時間から14,000時間へ急激に延ばされています。その前にも67年(昭和42年)から68年(昭和43年)の1年間に,なんと7回も小刻みに延ばしています。1年間に7回も延ばすということは,TBOをこれだけ延ばしても大丈夫ということを検証して行ったものではなく,整備能力に合わせて整備間隔を際限なく延長していったことを示しています。
この事実は外国人乗員の導入による,余りにも急激な事業規模の拡大に,他の部門がついていけず,「合理化」(=手抜き)へ解決を求めた事を表しています。当時はエンジンの交換に要する時間を,できるだけ短縮する競争のようなものが「ZD」運動と結び付けて行われていたようです。このような行き過ぎた「合理化」の行き着く先には,健全な拡大はあるはずもなく,待っていたものは連続事故でした。
エンジン整備時間延長の経過
72年(昭和47年)には,とうとうニューデーリー,モスクワと連続事故が発生しました。そして多くの乗客と我々の仲間の命が失われました。このような急激な事業規模の拡大を許した背景には,労働組合が会社の違法な介入によりその機能を失っていたことが指摘されます。外国人乗員の無制限導入,訓練の簡略化に抵抗が出来なかった事,整備部門を組織する組合も「合理化」に反対する力がなく,無抵抗であった事,その結果,会社の暴走にブレーキが掛けられず連続事故につながりました。このように組合に対する介入,組織攻撃は安全性を低下させる結果になっています。
このような状態の中で,乗員組合は細々と抵抗を続けていましたが,結果的には力不足でした。しかし,この時の取組みが連続事故の後でマスコミに「伸びすぎた翼」シリーズとして取り上げられ,それなりの成果を挙げました。
クアラルンプール事故
組合活動を認めない機長全員管理職制度,長期に亘る異常な機長養成制度,日航の営利優先の分裂労務政策,この私達の指摘する3点は密接に結びついた関係を持っています。機長全員管理職制度は,正に日航の分裂労務政策の中から生まれたものでした。
今から凡そ70(昭和45)年8月,会社は以下の理由で,一方的に機長を管理職乗員として発令し,組合費のチェックオフも停止,事実上組合員資格も取り上げ,世界でも唯一の日航だけの機長全員管理職制度を導入しました。
@ ハイジャック防止の為に各国が締結した東京条約で,機長の権限が明確になったこと。
A B-747ジャンボの導入により,多数の人命を預り,機長の責任が増大したこと。
B 乗員の中に,機長の待遇に不満の声があったこと。
しかし,@項は,航行上の法律であり,機長の職責としての権限の明確化であって,組合活動の禁止には全く無関係です。又,航空法上でも同様のことが言えます。
A項は,大型化とで機長の責任が増した,という論理は全く筋が通りません。機長としての責任は小型機でも同様なのですし,B−747を導入した会社で機長を管理職としたのは日航だけです。
Bの理由は,「待遇」こそ組合と会社が話し合って決めるものであり,管理職になることが「待遇」向上に結びつくのでしょうか?(第2節(3)を参願)このように,会社の言う“機長は管理職’’という根拠は,ことごとく崩れさっています。機長全員管理職制度が突然導入された理由を見出すには,当時の労使間の状況を見る必要があろうかと思います。
64(昭和39)年,協定を破っての外人ジェットクルー導入問題,南廻りヨーロッパのナビゲーター(航空士)廃止等で争われた乗員組合初のストライキに対して,会社は65(昭和40)年,当時の組合役員4名を解雇しました。
翌年には第二組合を発足させ,露骨な分裂工作を行い,差別を持ち込んで,第一組合である乗員組合を8名にまで追い込んだのでしたが,第二組合員からの支援の中で,解雇された役員の解雇撤回,第一組合員の機長昇格差別撤回の運動が進み,69年70年にかけて,中央労働委員会,東京地方裁判所,都労委で会社主張は次々と敗れさりました。
又,70(昭和45)年1月,組合側には殆んど利益のない労働協約蹄結についての運乗組合の一般投票で,不正投票事件が発覚しています。職場では,「自転車に乗れれば,誰でもパイロットになれる」として会社が行った,航空士・航空機関士をパイロットにする聴務統合訓練で多くの訓練中断者が出ていました。
このように職場で不満が増大し,運乗組合も民主的な運動を開始し,乗員組合の解雇・差別撤回の気運が増して行く中で,「労働協約」締結に失敗した会社は,突如,機長全員管理職制度を導入したのです。(資料)。
註:69〜70年にかけて会社の提示した「労働協約」では,組合員の範囲に機長は含まれていました。
このように会社の狙いは,
第1に:会社の方針に反対しない労働組合を作る。(分裂,そして第二組合の育成,会社に有利な「労働協約」)
第2に:乗員の労働組合の中心である機長の組合活動を禁止し,機長も含めた乗員の声を押え,組合の弱体化を計る。
第3に:乗員の中に,管理する者(機長)と管理される者(他の乗員)の関係を作り,管理される者を押える。これが物が言いにくい職場を作る。(第2,第3は機長全員管理職制度の導入)
であったことは明白です(資料)。 この“物が言いにくい職場を作る”という会社の狙いが,航空機事故を起こす大きな背景となっています。
82年2月9日の羽田沖事故発生後も,会社は“今回の事故と機長全員管理職制度は関係ない"と主張し,国会に於いても民社党を除く全ての政党から機長全員管理職制度と羽田沖事故との関連を追及されたにも拘わらず,高木社長は「機長全員管理職制度を改める意思はない」といっています。
77(昭和52)年の日航機クアラルンプール事故に関し,マレーシア政府の発表した事故調査報告書は,事故原因を次のように結論しています。(資料)
『この事故は,当該機の機長が滑走路を視認しないまま,最低降下高度以下に降下し,ひきつづき機を滑走路手前の丘に衝突するまで降下を連続したことを原因として発生した。さらに,重要なこととして,副操縦士が発行されている社内規定に違反した機長に対し,異議の申し立てを行わなかったことがあげられる。』
何故,副操縦士は,最低安全高度(MDA)を切って降下している機長に対し,積極的に反対しなかったのでしょうか。当時,MDAは750フイートでしたが,多少その高度にとどまったあと,再び降下を続け,300フィートを切った直後,ゴム園に墜落したのでした。
事故調査報告書にあるコクビット・ボイス・レコーダーによる会話の記録は,乗員の感情を推し量ることはできない,冷たい文字の羅列でしかありません。しかし,副操縦士の"600フィート"“500フィート"と読みあげ続ける声・・・。
事故と直面した極めて危険な状況下ですら,「物の言えない職場」は,管理されている乗員の心の中に重大な影響を与えていたのです。
註:羽田沖事故の安全対策の中に“対面率の向上”という項目がありました。
しかし,この事故の乗員はフィックスドクルーとして長い間一緒に乗務していたのです。
また,同報告書は,『日本航空は,機長が危険な違反をしようとしている時,副操縦士がこれを是正する権限を明確に与えるよう検討せよ』との主旨の勧告を行っています。
ところが未だに,社内規程のどこにも,そう言った副操縦士の権限は明記されてはいません。
会社は,クアラルンプール事故後の対策の一つとして,航空機事故が多発する離陸後の3分間及び着陸前の8分間,つまり,「危険な11分間」から名称を取ったCritical
Eleven Minutes委員会を作り,安全阻害要因の調査・解析行いました。
その中で,Critical Eleven Minutes委員会は,
@ 他の乗員が何かおかしいと感じた時は,躊躇せず機長に助言できることの重要性や,
A 行き過ぎた管理体制は,乗員が判断を下す時に結果を気にする余り,不必要なタメライの気持ちを起こさせ,場合によっては判断を狂わせること。
B 乗員の士気は安全運航に大きく影響すること,士気の問題は労務問題に関わるものが多いこと。また,
C 操縦室内には会社対組合の確執が持ち込まれてはならないこと。
等を指摘しています。(資料)
Critical Eleven Minutes委員会,つまり会社自身が,こう言った機長全員管理職制度に起因する問題点を指摘しています。しかし,議論されただけで,実際には,これらの問題は何も解決されてはいません。
KULにおけるJA8051事故調査報告書
DHおよびMDAにおける判断、操作について(MISSED APP CONCEPTを含む)
Captain Commandを確立するための方策を講ずること
Crew moraleと安全性はどのように関連するか Moraleを低下させるものには何があるかPage1、Page2、Page3
日航ジャンボが腹バイ(サンケイS50.12.18)
乗員の憲法とも言えるオベレーションマニュアルには「乗員は安全運航の確保を第1とし、定時性・快適性および経済性にも配慮しなければならない」との定めがありました。
つまり,管理職である機長は1人,他の乗員よりも強く経済性を重視しなければならない立場に立たされていたのです。
75(昭和50)年,アンカレッジ空港でB−747型機が誘導路脇の谷間に滑り落ちた事故は,こうした背景を象徴しています。
機長は滑走路が凍結しており,横風が強かったために出発を躊躇していました。その時,東京本社は機長がそれを承知しているにも拘わらず,早く出発しなければ東京の空港運用時間制限に間に合わなくなると通知し,機長は出発を決意しました。そして事故が起きたのです。
事故調査を行った米国運輸安全委員会は、この事実を重視,「悪天候下に於いて乗員の判断を甘くしたり弱めたりして,スケジュールを保持させるような圧力を許してはならない」と指摘しています。(資料)
機長管理職制度と安全運航 アンカレッジ事故を見ればその因果関係は明白!
会社資料でも明らか 組合加入と80時間保障とは全く関係ない
日航の機長養成制度が異常に長くなったのは,72(昭和47)年の連続事故以降です。70年に機長を全員管理職とした会社は,72年の連続事故後,「機長を厳選する」という名目の下に,異常に長い,労務対策優先の関門を設けた機長養成制度に改訂する理由としたのです。
国内他社や欧米の航空会社が,3〜7つの関門で4〜5か月で集中的に訓練を行い,純粋に技術的な審査で修了するのに対し,日航では22関門(82年),現在でも1年以上(昔は2年間)の期間をかけて訓練を行っています。
22の関門の中には,3回の評定委員会,2回の面接や論文提出,英語検定等,他社には見られない技術以外の関門が多すぎる点が指摘されていました。(資料)
アンケート調査によれば,面接では組合問題を質問に取りあげたり,思想・信条を侵して精神的圧迫さえ加えているものもあり,会社は,“管理職になるのだから,会社のことを考えてフライトしてもらわなければこまる"との発言をしたりしました。
会社が「機長を厳選する」名目の下で,会社の方針に従う機長作りを行ったのです。
会社は,事故が起こる度に乗員に"労務対策優先”の管理強化を行って釆ました。しかし,乗員の管理ばかり強化しても,何ら事故再発防止にならなかったことは,その後のクアラルンプール事故で立証されています。
他社並みに,人間性を歪めない,しかも労務対策優先の長期に亘る異常な機長養成を改めることが,安全運航を確保する上で不可欠な要素です。(資料)
82年における機長養成プロセスと関門の比較(国家試験を除く社内規定)
第32期の活動は,85年8月12日の123便ジャンボ機墜落事故を契機に展開されてきました。それは,123便事故が日航経営者の20年に亘る職場無視(組合敵視),営利優先,安全軽視といった,いわゆる分裂労務政策が,もはや行きづまった中で発生したことに他ならないからでした。
32期発足に当たって,8月1日には執行委員会見解として「職場の声よりも政・財界の意向が優先されている会社の労務政策のもとで,日航の安全が脅されている」と正面から批判し,警鐘を鳴らしてきました。
このような取組みは,事故発生直後8月13日の段階において,事故原因と背景について事実に基づく問題点を,執行委員会見解として内外に明らかにすることを可能にさせました。
こうした私たちの活動は説得力を持ち,社内外に大きな影響を与えました。
しかしながら一方では,社内の一部から「乗員組合が,事故原因が明らかにされていない段階で見解を出すのは早計ではないか」との批判も出されました。その後推定原因にもとづき,公正さを欠いた調査が行われた現実や、その後の日航内の状況を見れば,こうした批判が的を得ていなかったことは言うまでもありません。
また,事故直後には乗員・乗客合同による緊急集会を持ち,職場の意見を再度集約・確認し,緊急要求として根本的な安全対策を会社に求めました。
このような職場の状況にもかかわらず,日航経営者は,123便事故から1カ月後の9月12日には役員会の中で日航民営化の方針を決定しました。
また,10月1日に会社が示した安全対策は抜本的対策でなく,いわゆる従来と同じ「バッチ当て」対策と言えるもので,経営としての反省は全く見られませんでした。
私たちは、事故後のこうした会社姿勢に対しても,その度ごとに事実でもって反論し,会社の施策や方針の問題点を見解でもって社の内外に明らかにしてきました。その結果,私たちの主張は朝日・毎日・読売の各紙で大きく取りあげられたり、運輸大臣自ら組合代表との会見を要請するなど,私たちの主張は社会的に無視できない状況となりました。
こうした中で高木社長以下,旧経営陣は辞任せざるを得なくなりました。
しかしながら一方で,年末闘争を控えた11月に入り,モスクワ線の航路逸脱事件等を利用し,'84年10月の総務庁勧告による乗員攻撃にまさるとも劣らない激しい乗員攻撃がくり広げられ,私たちの運動を弱めようとしました。
こういう状況の中で一時的には職場に動揺はありましたが、物言えぬ機長に代わって,乗員組合が乗員の立場で事実をもって反論することにより,逆に職場の団結は強化されました。
また,事故後の10月,従来親睦団体であった日航機長会が定期総会の場において「組合化」の方針を出し,’86年6月12日の臨時総会において機長組合結成を宣言し組合活動が開始されている今日の状況は,真に特筆すべきことであります。不幸な事故の結果ではありますが,こういった状況がつくり出されたのは,私たち乗員組合が,この問題を16年間に亘り安全運航確立の基本的要求として掲げて,いかなる非難や中傷に対しても組織の全力をあげて取組んで来たことの成果に他なりません。このように,85年は私たち乗員組合にとっても歴史的節目を迎えた一年でありました。
機長組合の結成は従来から私たちが主張しているように,今後の安全運航の確立と労使関係に極めて重要な影響を与えるでしょう。
'85年12月18日に臨時株主総会が開かれ,伊藤副会長(後会長)を中心とする新経営陣が決まりました。そして新経営陣は着任後まもなく「絶対安全の確立」「現場第一主義」「労使関係の安定」「公正明朗な人事」を経営方針の柱として掲げました。この方針は過去の日航の労務政策が事故という形で,その矛盾が一気に吹き出したことにより出されたものであると同時に,私たちの粘り強い取組みにより,経営としても過去の労務政策を変更せざるを得ないことから出発したことによるものと言えます。こうした方針が出されたことを,私たちの取組みの反映として一定の評価をする必要もあります。
その結果,新経営として,「CO−PI地上業務の中止」「機長の組合活動の自由」など,労使間で懸案について解決する方針が打ち出されました。
また,客乗関連についてもB767の客乗編成について,不十分ではあるものの6名編成(全日空+1)を回答するなど,問題解決への姿勢を示しました。
これらの回答は,職場の実態を見た場合,経営者として労使間で争っても展望を持てるはずもない状況の中から出てきたものです。これは,永年の組合の取組みの成果が人心一新という形で表われたものであると言えます。こう言った現象は,状況の変化の主導権が経営側にあるように職場に印象づけられ,運動の成果として見えにくくなっているのもその特徴です。
また,その後も新経営陣は4月からのヨーロッパ直行便,シカゴ直行便や南米線のダブル編成,またオペレーション・マニュアルからの「経済性」の用語の削除を回答し,更に,身体検査問題においても解決する姿勢を見せています。これら全てについても,ストライキ権を背景に,機長も含めて全ての乗員の切実な要求として取組んだ結果であります。
新経営陣のこうした施策が,極めて常識的であるにもかかわらず,職場で一時期新鮮に捉えられたのは,従来の労務政策が前時代的かつ異常であったからに他なりません。
しかしながら一方では,客乗の昇格差別問題や全目空格差是正といった賃金の問題,また,大型機3名編成実現等の問題については,春闘・夏聞の中でも従来の会社主張の枠を出ることなく,期待はずれとの声が職場から数多く出されました。その結果,逆に新経営の中途半端な対応は組合への結集を強化させました。
客乗の昇格差別是正や,全目空格差是正等の前進が難しいのは,客乗組合と客乗支部、乗員と地上(全労)というように,これらの要求が職場全体の要求になり得ていないことによるものであり,分裂克服の闘いこそ要求前進につながる点で急務であるという教訓を残しました。
いずれにせよ旧経営陣が,あらゆる問題で組合への対決姿勢を露骨に表わした反面,新経営は過去の誤ちを経営の立場に立って分析し,従来の頑な労務方針から少なくとも「形にはこだわらない方針」へと転換し,問題解決にあたった点に,注目する必要があります。0Mからの「経済佐」の用語の削除は,この典型と言えます。
この'85年は,乗員組合の永年の取り組みの成果が一気に回答として表われた一年でした。副操縦士地上業務問題の解決など,機長も含めた組合の団結と航空連を中心とする産別の支援のもとで,全力で取組み成果を挙げて来たことは言うまでもありません。
しかし一方では,この一年のように要求が前進している時期を経験すると,その後要求が前進しにくい時代に直面した場合,ややもすると組合員は展望を失いがちとなります。そういった意味では,私たちの取り組みを歴史的に観ることが極めて重要と言えます。
私たちは65(昭和40)年の組合役員の不当解雇,翌年の組合分裂,そして、70(昭和45)年会社の介入による機長の組合脱退を経験してきました。そして、73(昭和48)年には二つの組合の統一を成し遂げてきました。また、統一後はセカンドオフイサーn年という新乗員計画を中止させ,航空機関士制度を再開させたり,従来全く支払われていなかった深夜手当や時間外手当の獲得,更に勤務・通勤の改善など次々と成果をあげてきました。
組合の統一を成し遂げてきた原動力は,解雇や差別撤回などでの法廷闘争もありますが、組合所属にとらわれることなく、8人の乗員組合が運航乗員組合員を含めた全乗員の要求を取りあげて取組んできたことによるものでした。
また,乗員計画の闘いなどでも,会社のRATING強行(セカンドオフィサーの期間中に副操縦士の資格を取得させる代わりに,滞留期間をn年に延長しようとした)という状況にもかかわらず,強行後も決してあきらめることなく闘い,要求を前進させてきました。
こうした永年の闘いの教訓が,CO−PI地上業務中止や南米線の闘いに生かされたものと言えます。
とりわけ南米線については路線の特性から対象者も少なく、加えてステーション・クルーという物理的な困難も加わりました。職場ではダブル編成要求が強いにもかかわらず会社は,84年12月南米線マルチ編成による運航を強行してきました。しかし南米線問題では,社会が強行すると「これで終わり」という挫折感は職場に全くありませんでした。
これは過去の闘いの経験を生かされたこと,組合員全体が要求に確信を持っていたこと,更に,こうした職場の要求を組合が正確に取りあげてきたためと言えるでしょう。
具体的活動としては,南米線毎回アンケートを半年間にわたって続けました。また,特筆すべきこととしては,当該路線の乗員やステーションクルーが集会や大会の場でフライトの実情を職場に訴えるなど,広く職場の仲間に理解を求めたことも要求を前進させることに影響を与えました。
南米線でのこのような職場の声や組合の取り組みは職制にも日々理解が広まり,会社の組織としてもダブル編成の声を出さざるを得ませんでした。しかしながら会社は,戦場の実体に目を向けず,「マルチ編成で妥当」との姿勢をくずしませんでした。その結果,86夏闘山場前日闘争委員会として南米線乗務拒否の方針を決定し,会社に通告しました。こういった状況を受けて会社は,ダブル編成を組合に回答しました。こうして,南米線ダブル編成問題は一気に解決へと進みました。
この南米線の闘いにも過去の闘いの教訓は生かされました。第1に、75(昭和50)年仙台専任教官の職場確保の闘い=対象者が少ないという点,第2に,新乗員計画(PILOT RATINGの強行)=強行された後の闘い方という点、第3に,シアトル線,NAN線の闘い=路線開設に伴う闘いの教訓という点があります。
このように過去の闘いの蓄積を生かし,活動を継承することも職場の確信につながり、要求獲得の原動力となりました。組合員や執行部への介入を許さず、職場のゆるぎない団結のもとでのストライキ方針こそ,問題解決への道であることは,南米線の闘いにおいてもはっきりと証明されました。
新路線問題は、私たちにとって労働条件の基本とも言えるほど重要な問題です。これからも、それぞれの状況に応じて粘り強く職場の声をまとめ,また、時には毅然たる態度で取組むことが重要といえます。
’86年の内外の情勢を見るならば、福祉・教育費を切り下げる一方での防衛費増大、また、国鉄の分割・民営化問題での国鉄労働者への攻撃,更には臨教審での組合攻撃というように、政府・財界の臨調「行革」路線は戦後政治の総決算として、民主主義を脅かそうとしました。
一般の情勢が労働組合に厳しい状況下にあるにもかかわらず,私たちの要求は着実に前進して来ました。私たちは国鉄労働者と同じ攻撃を受けてきましたが、私たちに対しては国鉄とは全く異なる手法によって対応がなされました。
これは国鉄経営者と日航経営者の違いでなく、そこに働く者の取り組みや職場の状況の違いが,こういった形を生んだものと言えます。副操縦士地上業務,臨調「行革」路線の日航2万人体制という方針のもとに出されたにもかかわらず,これが「絶対安全」に反する立場として中止されたことなど,私たちの主張と取り組みの正しさがはっきりと裏付けられたのです。
・分裂労務政策の大きな柱の一つであった機長管理職制度は,123便事故を契機に機長組合の発足という大きな転換がありましたが,同様にスト破り要員として管理職発令を行ったり,組合役員経験者を不当に差別してきた航空機関土管理職の問題が残されていました。
日本航空横長組合
|
・'86年10月8日に開かれた経営協議会の席で組合は,管理職F/Eの問題について会社と議論しました。組合の粘り強い取り組みにより,新経営に機長の組合活動の自由を認めさせ,'86年6月に機長組合が結成されました。そして機長の中で組合員の範囲が定められました。
部長・副部長・本部長付機長以外が組合員の範囲と決まりましたが,その基準で管理職F/Eを見ると,殆どの人が組合員としての有資格者であることは明白でした。
経営協議会で,その点を社長に確認したところ,社長も機長の場合と同じであることを認め,管理職F/Eが組合活動を行うのは全く管理職F/E自身が決めることであり,会社が決めることではないとの考えを述べました。
これにより,長い間,会社が認めようとしなかった管理職F/Eの組合活動の自由が認められたことになりました。また,その後の団交で80時間保障等,待遇の切り下げも行わないことを回答しました。
こうして,日本航空再建のためには「絶対安全の確立」と,その基盤たる「労使関係の安定と融和」こそが必要であるという認識の上に,87年2月10目 先任航空機関士組合が発足しました。
・今後,「大型機3名編成」獲得や安全運航確立に向けて先任航空機関士組合の果たす役割が大きく期待されています。また,機長組合・先任航空機関士組合の結成により殆どの乗員が組織化されたことは,乗員組合の永年の分裂労務政策との闘いの一つの到達点でもあり,一日も早い全乗員の統一を引き続き目指していかなくてはなりません。
・ 87年2月の臨時組合大会において春闘要求案が決定され,争議権投票が開始されるなど,春闘前段の闘いのさ中,3月14日 伊藤会長が突然辞任を発表しました。新経営発足以来,過去20年間に亘る分裂労務政策こそ日航連続事故の背景であるという反省に立って数々の施策を打ち出し,職場の問題の改善に向け歩み出したところでした。
会長辞任について乗員組合は,政府(自民党)・財界の労使間題に対する不当な介入であり、「臨調行革」路線の中で伊藤会長の進める諸施策がそれに逆行しているように受けとられたこと等を分析し,会長辞任という状況はあっても私たちを取りまく基本的情勢に変化は無いと判断しました。
・ しかし会長辞任の波紋は大きく、最高経営会議の方針は引き続き継承されるという会社表明にもかかわらず,労使交渉の場においても不当発言や対応の悪さが目立つ等,会社が再び旧来の安全軽視,分裂労務政策へ戻る兆しが見えはじめました。
・ 87年3月、朝日新聞に日航開発の不正経理,毎日新聞のHSST社に関わる疑惑の報道は職場に強い衝撃を与えました。
・ 厳しい企業環境を訴え・国際競争力を強化し,民営化して復配を達成するためには、編成数の切り下げ、賃金抑制が不可欠とマスコミまで動員して宣伝強化していた会社が、大きな疑惑に関わっているという事実は,まさに経営の腐敗であり,会社に一片の自浄能力も無いことが明らかになりました。
・ 87年4月23・24日の山場に分けて職場が今までにない高まりを見せている中,会社がドルの先物予約で,現在の為替レートがつづけば,今後11年間で1,500億円の損失をこうむることが毎日新聞の報道で明らかになりました。61年度はすでに100億円,62年度は更に約160億円の差損が見込まれています。
日航開発,HSSTに関わる不正・旋惑に加え,新たなドル先物予約の問題により・職場の怒りは頂点に達したと言えます。しかしながら山地社長は,先物予約について経営に責任はなく,差損の穴埋めには厳しい「合理化」が必要と,職場感情を無視した信じられないような発言を行いました。
・ 不正経理の問題が発覚した時点から直ちに,機長組合・先任航空機関士組合と共に3乗組で取り組みが開始され,16日には3乗組による「日航再建経営旋惑究明特別委員会」が発足し,会社を追及しました。
その後,機長組合・先任航空機関士組合の活動は,更に大きく拡がると共に,乗員組合との連携した取り組みも強化され,具体的な要求の実現につながりました。
88年秋の会社の「人事考課制度改定」提案に対し,乗員組合が会社のしめつけ強化の狙いや,基本賃金の南西格差などの実態を明らかにしたことは,会社だけでなく機長の職場にも大きな影響を与え,不充分な面は残るものの乗員全体の基本賃金体系の改善を行わせています。(2B・S職級導入,自動昇格,経験5年以降全員1号俸メリットなど人事考課の形骸化)
また,会社の新たな外国人乗員導入計画に対する闘いでも,機長組合が職場の声に基づく要求を掲げて取り組みを行い導入撤回には至らなかったものの,日本人F/E要員の採用再開の要求実現,及び外国人乗員撤回に向けての展望を切り開いています。
今日の航空界の状況をみるなら,乗員組合がいかに団結強化されても,機長組合や客乗組合,さらに航空連といった産別で取組まなければ殆どの問題の解決は難かしいと言えます。
すべての航空労働者が団結する状況を作り出すため,常に他労組の状況も念頭において取組むことも,私たちの組合には求められているのです。